メシヤ講座・特選集no.146(平成25年3月分)

 <御教え>
『文明の創造』科学篇
喘息

(文創  昭和二十七年)


本文は『文明の創造』172ページに記載されています。(『文明の創造』購入方法は「出版案内」を参照ください。また、研鑚資料『文明の創造 二・下』では18ページです。)


なお、『喘息』は4月に拝読し学び合う御論文です。下記解説は、3月度各地メシヤ講座で拝読した『肋膜炎と腹膜炎』について学び合ったもの、及び質疑応答からのものです。

≪解説≫
『文明の創造』拝読により組織に植え付けられた観念から脱皮することを許される

メシヤ教代表 楳木和麿

質問「『メシヤ様』と『明主様』の違いは?」

3月度の各支部、各出張所及び各会場での「メシヤ講座」の内容は大筋で各支部にて良くまとめていただいているので、各ホームページを参照していただけることを願っております。しかも、責任者や担当者が話の裏付けとなる御教え、学究各分野の研究資料を添付していますので、具体的に理解が深まると期待されるところです。

今回の特選集では、初めに3月度の全国巡回で多く寄せられた他教団信徒の方々からの質問や他教団信徒の合同勉強会で考えさせられた内容をまとめました。

まず、「現在ネット上で『メシヤと呼べぬ者は出て行け』という御言葉があったことや、御神格について学ぶことは多いのですが、実際上『メシヤ様』と『明主様』の違いは、どのように解釈したらよいのでしょうか?」という質問が多く寄せられました。

『メシヤ様』とお唱え申し上げて取り次ぐ浄霊による恩恵の素晴らしさや偉大さ、絶対性はこれまで幾度となく取り次ぎ、実証例は枚挙に暇(いとま)がない程ですので、十分な情報を得ている方々に“押さえ処”として次のようなことをお伝えしました。

それは、「お守り」を御揮毫に“なられたか”“なられなかったか”の違い、という表現もできるということでした。これが、『メシヤ降誕仮祝典』を執り行われた前後のことなのです。『明主様』時代は『お守り』を御揮毫になられて浄霊力を授けておられて、『メシヤ様』時代は御揮毫になられずに浄霊力を授けられた、ということなのです。勿論、形としては『御守り(後におひかり)』という形は残りました。メシヤ様が昭和29年4月19日に御浄化に入られて御揮毫になられなくなった際に理事会で印刷に踏み切ったことは、皆さん、ご承知の通りです。

印刷のことを後で御知りになったメシヤ様は二つの御言葉を垂れています。『それで良かった』という御言葉と、『本当は御守りはなくてもいいんだけどな』という御言葉です。この御言葉は御自身のことを弟子達がどのように認識しているかの分水嶺でもあります。つまり、『本当は』と仰った内容をどのように受け止めたかが重要で、仮に「『本当は』と仰っているが今は・・・」ということで御神意を汲まずに過ごしたならば、それは既に神権を侵(おか)していることになるのです。

このことに思いを馳せない者は、メシヤ様の弟子ということの前に宗教家としての資質が問われるのではないでしょうか。

しかも、この受け止め方が『メシヤ降誕仮祝典』となった理由だと拝察されます。『仮』を付けるか『本』を付けるかは、『メシヤと呼べぬ者は出て行け』という御言葉をどのように受け止めたかにも係っており、仮に面従腹背で聞いていたのならば、『本』を付けることがおできになる訳がありません。何故なら、神様は人間の肚の底の底を御照覧されているからです。

『本当は御守りはなくてもいいんだけどな』と仰っているにも拘らず、『本当』でないことを続けているのですから『本祝典』とはならないのです。多くの教団が体制や建設という型に焦点を当ててきました。それは、『御守り』という形に縋っているから仕方がない面でもあるのですが、しかし、『想念の時代』という御言葉からしても、メシヤ様という御存在への認識、想念に大きく関係しているのです。

こうした内容に多くの方々が得心された御様子で、次世代を担う志しが眼差しに光となって灯されていました。

知らず識らず神権を侵(おか)す末路

神権を侵(おか)すことに触れて、重大なことを思い出しました。長年教団改革に打ち込む中で良き同僚、素晴らしき同僚もいましたが、悲しい最期を迎えた人もいました。こんなことがありました。

「教団護持委員会」発足直後「新生協議会」は「おひかり」の下付をしない戦術に出たことがありました。その影響下で、例えば現・三重支部責任者は、当時一年以上入信が許されませんでした。その結果、御教えの学びが人一倍許され、『岡田茂吉全集』を網羅する程の御教え拝読ができるまでになりました。これは不幸中の幸いと言えることです。こうした方が続出する中で、入信の条件を厳しくした方が良いという意見も生まれました。そしてそれを実行した人も出てきました。

一時期は脚光を浴びて役員までになった人も生まれました。ところが、「おひかり」の下付が再開されてからも続け、何時しか無意識ながら権能を揮うかのようになってしまったのです。成果は許されるのですが、組織内で問題が起きるようになってしまったのです。そして、定年前に他界してしまう事態を迎えたのです。

これは貴重な教訓です。私達は御教えを網羅する程に拝読を許され、教団裏面史も知り尽くすまでになりました。そして批判も加えました。しかしながら、先達の批判は簡単なのですが、知らず識らずに自らも同じ道を歩んでいることもあるのです。

先達は現代の教団の礎を築いたという功績は言うに及ばないのですが、神権を侵(おか)すことを知らず識らずに重ねていた面もあるのです。薬毒論はメシヤ様が提唱されたことであり、自らが提唱したことではないにも拘らず批判を加えることを通り越して攻撃的な言動を行ったり、見下すような振る舞いをしてしまうのです。

また、信者に対して厳しい姿勢を貫いた方もいました。「あの者はまだ判っていない」と批判を加えてみたり、入会条件を厳しく設定してみたり、ということなどです。組織内に問題が生じた場合、生じさせた人の問題ではなく責任者の在り方の問題であるのです。そうしたことが自分にはないか、という内省を怠ると同じ轍を踏んでしまいます。

これが、「立春祭」でお話ししたことの意図するところです。『御神業の本筋』を進めようとすればするほど、このことを自覚していなければなりません。御教えに沿わない取り組みを重ねている教団指導者は、元々解かっていないのでどうでも良いのです。解かった者だからこそ鮮やかな奇蹟を許され御守護に満ち溢れます。だからこそ、念には念を入れて、これから細心の注意を払って進まなくてはならないのです。

神観の確立がなければ見る目が曇る

神権を侵(おか)すことに関連する話が長くなりましたが、次に多く触れたのは主宰神に係わる内容と信仰形態のことでした。

現在学びを重ねています『文明の創造』のサブタイトルにさせていただいた「『主神(エホバ)』様直接の御啓示」が肚に入っていなければ、一切の物の見方が変わってしまいます。そればかりか、視野狭窄状態に陥ってしまいます。

例えば、三重支部で、

【Wikipedia 最終更新 2013年3月6日 (水) 14:36 よりネフローゼ症候群】

 ネフローゼ症候群(ネフローゼしょうこうぐん、英:Nephrotic syndrome)は、高度の蛋白尿により低蛋白血症を来す腎臓疾患群の総称。

 低蛋白血症、高度な蛋白尿、浮腫(眼瞼や下肢)を主な症状とし、病理学的には糸球体基底膜の透過の亢進を一次的異常として認める。時に高脂血症(高コレステロール血症)も合併する。ネフローゼ症候群は元来病理学的な概念であり、腎炎=nephritisと異なり、炎症性の変化(炎症細胞浸潤など)がみられないものの総称として提唱された。若年層(特に幼少期では男子)に多く発症するが、30代の男女も発症例も多数報告されている。

症状

 上記の主症状以外にも、強度の全身倦怠感、皮膚の蒼白化や無気力、食欲不振、腹水・胸水等をみる。タンパクを尿中に排泄してしまう濾過障害の原因は、主に、腎臓の糸球体にあり、この部位に何らかの原因で、透過性が亢進することによって、本症を惹起すると考えられている。主に、アルブミンなどの血中タンパクが排泄されるため、血中タンパクが減少し、血漿膠質浸透圧が低下する。このため、全身に浮腫を形成する傾向が現れる。また、尿中タンパクが増大するため、尿の浸透圧が増大し、尿細管における水の再吸収が抑制され、一過性に利尿傾向となる。なお、この遺失タンパク分を肝臓が補完しようとするため、肝臓が、アルブミンの合成を開始するが、同時にLDLのようなコレステロール運搬タンパクも合成してしまうため、本症のような腎臓疾患の罹患者では、高頻度に高脂血症の状態をみることがある。長期の利尿期間を経て、腎臓の病態が改善されず、高度に腎不全の状態を呈し始める時期には、乏尿となる。

と添付していたり、大阪支部で

【木原:参考】メシヤ様の人救いの最初は、名も売れないため、重症難病のなかでもさらに医者も完全に見放した余命幾日も無いような人しか来なかった。一日一人来るだけの日もあり、一人も来ない日もあり、そうして朝方まで西洋医学の本を熱心に研究され、次第に、二人、三人と増えていったのである。

「大森に住んでいたころ、入院患者もずいぶんいました。それも精神異常とか、結核などの重病人ばかりでしたが、父は、そういう患者を毎日浄霊しながら、研究を重ねていたようです。

私も身体が弱かったので、始終、浄霊してもらいましたが、それとともに私や弟妹たちは、みな野菜ばかり食べさせられたことがあります。野菜ばかりで丈夫になるかどうかを、他人にはできないので、自分の子供を実験台にして研究していたようです。

またそのころ、私はよく耳下腺が腫れて、大変苦しみましたが、父は、自然に放置しておくのと、浄霊するのとでは、どの程度の違いがあるのかを試していたように記憶しています。

父はまた、大勢の病人の食べる食事についても、その献立などいろいろと吟味しながら与えていました。ですから、私たち元気な子供には、贅沢は許されず、魚などはたまにしか食べられませんでした。毎日たくさんの病人がやってきて、ときには子供部屋まで占領されてしまうこともありましたが、父は、一生懸命その人達に浄霊をしていました。」(メシヤ様の次男)

『御神業いよいよ忙しく 身も魂もへとへとに 疲れ果てにけり』

『次々に病人来り 目も開けぬ許り 忙しくなりにけるかな』

『五時間に 亙りて説きし神業に 胸はれ欣び○○氏去くも』

『風邪未だ治らず 寒き世の街をあちらこちらに 行くぞ苦しき』

『睡眠の不足の為めか 今日一日 流石に元気引き立ちかぬるも』

『昨夜よりの 風邪の為に心悪しく 鎮魂多勢に疲れはてけり』

『五、六人の 信徒残りて信徳の話に 徹夜なしにけるかな』

昭和9年5月1日 応神堂開業(麹町区平河町)

応神堂は図に見る如く二十坪そこそこの木造建二階家であった。教祖様は殆んど二階ばかり御使用になられていたようである。近侍の方としては御食事係のNさん親子、それに側近Iさんと僅か三人だけであったという。当時の教祖様の御日常といえば、お目ざめは九時頃であった。終日患者がつめかけるので殆んど一日中治療に終始せられていた。夜分は御神体の御揮毫が主たる御仕事であった。特に応神堂に御進出になられてからは、従来の短冊、扇面、色紙等にお書きになっていたものが大書の筆をとられた由である。この間の事情は御遺作集の中で、明主様の御筆技について井上先生が詳しく並べておられる。お休みになられるのほ深更三時頃であった。(昭和33年1月1日発行 地上天国誌 第102号)

と引用している他、各支部のメシヤ講座でも様々な情報を添えてくれています。

これは、この世の一切を創造され、運行されている御存在があり、メシヤ様はそのお立場から御教えを垂れてくださったのですから、私達もそこへ一歩でも近づかねばならない、という姿勢の表れなのです。主神様はこの世の一切を創造されるとともに万般の仕組をされています。科学は、その一端を明らかにしているのです。ですから、例えば、薬毒論を唱えていても薬理学を否定している訳ではないのです。そればかりか、学究の成果に感謝しているのです。

そうした姿勢を持たなければ、外部の医学関係者や専門家と連携をして取り組んだとしても主体性を失ったり、丸投げ状態に陥ったりしてしまうのです。また、非常識で可笑しな信仰を形成してしまいます。

御昇天後に組織の影響を受けて勘違いさせられたこと

また、純粋であればあるほど、こうした神観を有しない組織によって勘違いをさせられていることがあります。恐怖信仰に凝り固まってしまい、メシヤ様が御指摘する『信仰の種類』に当てはまる信仰を強いられてお気の毒な状態にあるのです。そのことから、次のような話をしたりメールを送信したりすることを重ねました。

そうしたことから浜松支部では次のような話をしました。

『最後の審判』は天変地異ではない先生

それから、ここまでいろいろな方々とお会いしながら話をしてきてくるのですが、やはり変な宗教に関わってくると、『最後の審判』になって、大峠がくるから早く改心しなくてはいけない、と。そして「改心するためにはもっとお金をあげなさい」というような宗教も非常に多い訳です。天変地異が『最後の審判』とみんな思っているのですが、あす311日に震災の悲しいそういう日がきますので、今、特集番組がたくさん放送されているのですが、あの東日本大震災も1000年に一度来ているのです。ですから『最後の審判』ではありません。1000年に一度くる大震災なのです。そして富士山の噴火もおおよそ200年に1回あるのです。この爆発が・・・、いくら灰が降ろうが何しようがこれも『最後の審判』ではないのです。だから天変地異が起きたときに『最後の審判』だとみんな考えているのですが、それは安易な考え方であって、要は人間の物質偏重思想が作り出すものが、それで末期を迎えるのが『最後の審判』の型なのです。

例えば、今日は黄砂がずいぶん飛んできているわけですが、黄砂が飛んでくる中にPM2.5が含まれている可能性があるので、そういうときには「外出を控えてほしい」、「換気を控えてほしい」ということになります。

「換気を控えてほしい」ということになりますと、新建材を使って建てている家には居られなくなるということになります。新建材を使ってクロスを貼っている家ですと、化学物質が部屋に充満しているので定期的に換気をしないといけません。1時間おきや2時間おきに換気をしないといけないのですが、今、PM2.5が飛んでくると換気をするとPM2.5が入ってくるから窓など開けることができない。これが実は『最後の審判』の一つの型なのです。住むところがなくなるということですね。 (中略)

それから帰りにお腹がすいたといってコンビニに入ったところ、山のように棚に食料が並べられています。しかし、どれ一つとして安心して買って食べられるものがありません。いくら食べ物が並んでいても、食べるものがありません。あれを食べていくと大腸がんや肝臓がんになっていく可能性があるので、恐らく一つも食べられない。

これは食べるものがあっても食べることができない時代、これが『最後の審判』の型ですので、いよいよ現代は『最後の審判』の中に突入していったということになります。

ですから、私たちの食生活、住環境は自分で努力、工夫していって、改善できるところは改善していかないと、我々はガンとかそういうことになっていく可能性が、昔とはずいぶん変わってきているのだというふうに受け止めて、よくよく注意しながら生活をしていただきたいと思います。

少し冷静に考えれば、地震は、今後も続くことは明らかですが、これを『最後の審判』の如く捉えてしまうと、恐怖信仰が形成されてしまいます。東南海トラフが動く場合には九州も甚大な被害になることが予測されます。

しかし、これは地球を維持するための現象です。地球の自転の速度をご承知かと思いますが、時速1674,4kmです。この速度とマントルの速度がずれているために地殻が動きます。それを修正するために地震が発生するのです。

と同時に、この速度のずれで偏西風の蛇行を生み、日本では四季折々の変化も同一ではありません。また、偏西風そのものはアマゾンの酸素を砂漠地帯に送り、地球上の酸素濃度をほぼ均一に保つなどの働きを持っています。

科学の発展とは、主神様が経綸の一つとして仕組まれた『仕組』を解き明かしてゆくことです。宗教の役割は、その認識の繋ぎをしてあげ、人類の物心両面の成長をさせてあげることなのです。恐怖心を煽り、団体を大きくすることではないのです。煽ることは簡単なのです。しかし、それでは霊性の向上は望めません。

“もし、大惨事が生じた際には自分は何をすべきか”を、何処にいようとも、何時でも、どのような場面でも、不断に心がけることが『信仰即生活』の一つなのです。また、「一割・・・」は『私のことをメシヤと呼べぬものは出て行け』と仰った際に、腹の底から解った人数でしょうし、これからも認識できる人数であろうと考えています。しかしながら、私はそれでは申し訳ないと考え、一人でも多く可能な限り認識でき、メシヤ様と直に太く繋がる人を創るために動き続けているのです。

でき得るならば、全ての方々が「宗教の概念」をメシヤ様の示されたところへ高めてゆくように心掛けていただきたく願っています。そうすれば、いたずらに恐怖心が湧かずに安心立命の境地に一歩ずつ近づくことができるからです。

『御神業の本筋』を進めさせていただくために

こうしたことを踏まえて、岡山支部では次のような話をしました。

《御神業を担って立てる人材に・・・》

 代表:それから、景仰を拝読していくと、メシヤ様も、走って浄霊に行かれた人もいるんですよ。例えば、お子様の三弥子様がね、浄化ですって報告にいったらね、メシヤ様は奉仕者の美代子さんだと思って、下の坂道をずうっと駆け上がって浄霊にいったという場面が出ています。

 ということは、一奉仕者とか、まだ浄化上がりのそこそこの人の所には、メシヤ様は走っていって浄霊をする。しかし、一番有名なのは、小川栄太郎という先生がもう死にそうな浄化になっているのにも、『這ってでも来い』と仰っている。

 じゃあ、我々はどっちを選ぶんだということです。いつまで経っても、一奉仕者みたいなね、そっちの人間になりたいのか、それとも支部を背負っていくようなね、そういうメシヤ様にお捧げするような人材になりたいのかどっちなんだということです。

 で、M●Aの今の活動はね、みんな一初心者の人を作るようなお世話しかしてないので、だからメシヤ様の御神業というのを自分が背負っていくんだというような人が育っていかない、そういう体制をしているので、我々が浄化をいただいた時にはね、浄化をいただいた時というのは、一歩も二歩も向上を許される時なので、どっちの道を選ぶかということをいつも選択していかなければいけないわけですね。

 だから、今回の1ヶ月間は非常に貴重な一月だったので、これからメシヤ様に繋がって、そして自分はメシヤ様にお使いいただける、あるいはお支え出来るような人間にならせていただくんだというような気持ちにですね、そういう人を目指して進んでいただきたいと思います。

 もうね、発会式の日に目の覚めるような奇蹟をいただいているわけですよ。座れなかったのが、咳が出ただけで座れるようになった。あれは毒素を咳で排泄したから、足へ毒素が来なくなったわけなので座れるようになったわけですから。

 こんな奇蹟をみんなにいただいてもらいたいわけですよ。今のM●Aというところにいる人達をはじめとして、メシヤ様を全く存じ上げない方々にも、そういう奇蹟をいただけるような支部や出張所になってもらいたいわけなので。是非自分が見本となって、メシヤ様のことをお知らせするんだという気持ちになっていただきたいと思いますね。

また3月度は、様々にメシヤ様の御理想を実現させるために努力を重ねている人々にも出会いました。

その中には、乳癌を手術の期日まで決められていたにもかかわらず浄霊によって消滅するという御守護をいただかれた方もいました。〇〇〇明会から〇〇Aへ転籍した息子さんから浄霊をいただき御守護いただいた内容をお聞きして、私はその一部始終を耳にして大変感動いたしました。しかし、〇〇Aでは取り上げられなかったと言います。メシヤ様から多大な恩恵をいただきつつも、方針に沿わないからという理由からです。これは、知らなくて犯す罪よりも遙かに重い罪ですが、包み隠すという罪を組織が方針の下に積み重ねているのです。

この内容は、体験報告で後日発表していただこうと考えていますが、神の御名を唱えつつも神権を侵(おか)すとということは、こうしたことも指すのです。

いよいよ『御神業の本筋』に取り組むに当たり、こうした観念を一つひとつ正しながら歩を進めねばなりません。

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