<御教え>
世界救世(メシヤ)教早わかり
(昭和25年11月20日)
本教の誕生
右の如き(前回からの続き)、時に就ての一つの證拠をかいてみよう。近来米国で唱え始めた世界国家という言葉がある。之はいう迄もなく、世界を打って一丸とした理想世界の事であって、之が可能に迄物質文明が進歩したという訳である。如何に天国を造るとしても、文化が低く民族や国々が個々別々であったり、交通が不便であるとしたら、世界は不透明で、根本である人類思想の統一も出来ないからである。そうして愈々新文化の創造時代となったとしたら、其(その)雄大なる構想は如何なるものであろうかを予(あらかじ)め知って置く必要があろう。勿論其(その)為には神は一個の人間を通じて行わしめると共に、其(その)人間を機関として一大経綸を行わしめるのは当然である。それに選ばれたのが誰あろう、私という者であるとしたら本教の出現の理由も理解出来ない事はあるまい。故に神は天国の設計を時々刻々私に対って啓示され給うので、私は其(その)命のまにまに経綸を行いつつあるのである。それと共に旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正して役立つものにされ給うという事である。それが神の大愛である。それ以外のものは遺憾乍(いかんなが)ら永遠に滅びるより外はない事になろう。之が最後の審判でなくて何であろう。実に有り難くもあり、恐るべきでもある。只茲(ここ)で遺憾な事は、私が神示のままを発表する場合、唯物主義者は異端視し、非難攻撃を浴びせるが、之も一面無理もない。何しろ長い間曩(さき)に述べた如く、精神か物質かどちらかの文化の経験しか持たない人類であってみれば、どちらにも偏らない中正的新文化など、容易に理解出来ないのは当然であろう。そうして精神文化の側の人は、吾等の表わしている現当利益を以て、物質のみを追求する低級信仰といい、唯精神の満足のみを求めるのが高級となし、学問的に難解な字句を並べて独り可しとしている。処が事実最大多数者を救わんとするには、理論宗教のみでは効果が薄いとしたら、既成宗教不振の原因も此(この)点にあるのではないかと思うのである。
今度は唯物主義の側の人の観方であるが、之は又物質偏重の為、何でも眼に見える物以外は、悉く迷信と断じて了う。勿論、神の実在など信ずる余地もない。而も始末の悪い事には、少なく共日本の指導階級、所謂有識者と言わるる側の人々に、此(この)種の人の多い事実である。その為吾々の信仰に対しても極度に迷信視し、筆に口に反対する。甚しいのになると、近寄る事さへ戒める者もいる位であるから、大衆はそれに惑わされ、吾等の真相を把握する事が出来ず、兎もすれば触れることを躊躇(ちゅうちょ)するのである。従って結果から見れば知識人の多くは知らずして文化の阻害者という事になろう。尤も此(この)事は洋の東西を問わず、新しいものが生れた場合、必ずといいたい程反対者が出るもので、之は時代の先駆者が被る悲哀な宿命とも言えよう。
茲(ここ)で面白い事には、其(その)時代の文化レベルから、僅(わず)か頭角を抜いた位の説が出た場合、識者はそれを謳歌し称讃するものである。何となれば既成文化の教育を受けた人達は此(この)程度の説が最も理解し易いからで、ノーベル賞受賞者の多くは此(この)種の学者である。処が偶々(たまたま)其(その)時代のレベルから余りに飛躍隔絶した説を唱えるとすると、到底理解する事が出来ないから、反って異端視し、排撃し、抹殺しようとするのである。それらの例として、ヨーロッパに於ても、キリストを初め、ソクラテスやコペルニクス、ガリレオ、ルーテル等々先駆者の受難史を見ても明かである。処が私の唱える説は、右(上記)の人達よりも層一層破天荒で一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や、既成文化に固まった人達は、唖然として進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。然し若し単なる突飛な説であるとしたら、之程非難攻撃を浴びせられて、搗(かて)て加えて絶えず官憲の圧迫を受け乍(なが)ら、微動だもせず益々発展を加へつつあるのは、其処に何物かがなくてはなるまい。吾々が今日迄荊の道を潜り、槍衾(やりぶすま)の中を突破した事も幾度あったか知れない、にも拘わらず、予想以上に天国建設の事業は進展しつつあるのは、人間の理屈では解け難い事を覚らない訳にはゆくまい。何よりも一度本教の信者となるや、何人と雖も一宗の教祖位の救の力を現わし得る事である。一信者にして奇蹟を現わすなどは、日常茶飯事といってもいい、実に素晴しい現当利益である。そうして本教の教によれば人生の妙諦を会得し、真理に目醒め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念の下、未来に渉って迄も透見されるので、真の安心立命を得るのである。何よりも本教信者は時の経るに従い、人相がよくなる事である。というのは浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり、人々から敬愛されるという有徳者となるからである。そうして本教のモットーである地上天国を造る其(その)基本条件としては、先づ個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。此(この)様な人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのは勿論である。
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「節分祭」「立春祭」「教祖祭」
特集
<体験報告>
「あなたは癌だったのです」と告げる医師
豊中市 冨田博明
私が戴きました御守護の報告をさせて戴きます
平成18年8月、腹部に痛みを感じる日々が多くなり、病院で検査を受けました。その時内科部長のS医師はレントゲン写真を見ながら「おそらく、いや90%大腸癌の可能性があります。早急に手術をしましょう」と告げました。驚きで頭の中は真っ白になり、その場で“倒れてしまうのでは”と思いました。自分は天聖真美会で12年も信仰を続けてきたのに癌になるなんて、どうしてなんだというのが正直な気持ちでした。
その後S医師はH医師に手術の連絡を取り、一週間後に内視鏡によるポリープ切除手術を行いました。大小7~8個の内3個切除出来ましたが、大きいポリープは切除の際、出血が多くなるので一週間入院する事になりました。H医師はポリープを細胞検査したら癌ではなかったと告げました。私は心から喜びました。癌ではなくただのポリープだったなんて、今更ながら神様の愛に感謝申し上げました。
小さいポリープは4個残ったままでしたが、翌年の5月頃に又取りましょうと云われそのままにしていました。その前後から病気になったら病院に行くように云われる等、天聖真美会のあり方に疑問を持つようになっていました。
その頃メシヤ教に巡り合い、勉強会に参加する中、自分が求めていたものに出会えたことを実感しました。約10か月間痛みもなく、病院に行く事も忘れていました。しかし再び平成19年6月、痛みが出ました。病院で検査をしましたら驚いた事に4個残っている筈のポリープは3個なくなり、1個だけになっていました。実際にあったポリープが消えているのです。メシヤ教の浄霊は違う、絶対にすごいと感動しました。H医師は「ポリープがなくなっていますね、小さいからそのままにしておきましょうと告げました。
そして、平成19年11月、腹部全体に激痛が走り、もうどこが痛いのか解らなくなるほどの痛みでした。余りの痛さに病院に連絡しましたが一か月先の予約まで待つようにと言われ、診断もしていないのに、“我慢できないなら前回(10ヶ月前)渡した薬を飲むように”と指示する始末です。本当に医療とはいい加減なものだと思いました。
痛みで眠れない日が続き、楳木先生に電話で浄霊の急所を教えて戴き自己浄霊を続けました。2週間位経つと痛みは和らぎましたが、まだ続いていました。そして12月23日「メシヤ様御降臨祭」に不安はありましたが“どうしても参拝させて戴きたい”と思い浜松支部へ向かいました。冬なのに春を思わせる暖かさの祭典でした。何と神様のみ光の素晴らしい事、本当に感動しました。往復の車中で痛みが出ることもなく幸せでした。
数日後 排便時に真っ黒な便が出る日が三日間続き、その後激痛から解放されました。
12月26日、検査で病院に行きました。その時I医師から思いがけない事を聞かされました。カルテをまじまじと見ながら「良かったですね、あなたは本当は癌だったんですよ、でもきれいになくなっていますから、薬も飲まなくていいですよ」と告げられました。驚きました、最初の内科部長S医師は90%癌かもしれないと云いましたが、次のH医師は内視鏡手術の後「癌ではありません。良かったですね」と云う言葉を信じていましたから。実はH医師は私の年齢(83歳)その他の事を考え、配慮した言葉だったという事が解りました。思い返せば一週間入院してポリープを切除しましたが再発の可能性もあったのでしょう。
メシヤ教に御縁を戴いたお蔭です。急所の浄霊、御教え拝読、参拝と続ける中、私の人生を大きく変えて戴き素晴らしい御守護を戴きました。実は癌であったのに医師が驚く程の全快だったのでI医師は思わず本当の事を話したのではないかと思います。
“実はあなたは癌だったのです”
この度のことを通しまして、医療の限界、それに勝る浄霊の力、そして浄化は大変有難いものだという事を教えて戴きました。本当に有難うございました。
祭事に臨んで感ずること
メシヤ教 代表 楳木和麿
『世界救世(メシヤ)教早わかり』ご発表の背景
現在、掲載しております『世界救世(メシヤ)教早わかり』の日付を見ますと、昭和25年の11月20日です。この日付からメシヤ様の『可能な限り全人類を救う』『地上天国を建設する』というご悲願に対するご決意とご情熱を強く感じます。そうして、内外に世界救世(メシヤ)教開教に対する神意の理解を強く願っておられる御心が拝察されます。
昭和25年2月4日、『開教の辞』において『時期の推移に従って漸次発表する』と述べられており、その出発点として、同年3月11日に『世界救世(メシヤ)教 教義』をご発表になっております。
ところが2月18日に『救世(メシヤ)教の名に就て』をご発表になっており、名称についてご説明を重ねております。このことから推察されることは、当時「開教」の意味するところを理解できない人が多かったのではないか、ということです。そして、そのことが5月のご法難という形になって現われてしまったのです。
もっとも、開教直前に不幸な出来事が起きたことも事実です。天国会を主宰していた中島一斎師が開教五日前に他界されたのです。
中島師は、大本教時代にメシヤ様と出会い「この御方に自分の人生の全てを捧げて付いて行く」という決意を固められ、共に大本教を離れたほどの先達です。また、晩年には、大本教を離れることの出来ない二代様を諌める挙にも出ております。そのような偉大な先達を失ったが故に勃発したご法難であったことを、そのお孫さんと出会ってご帰幽年月日などを再確認する中で整理することができました。
いかにも人間的な事件であり、「世界救世(メシヤ)教の開教」に対する認識の薄さがもたらした悲しい事件でした。最も残念なことは、ご法難が発端となりメシヤ様が御神業における様々な制約を強いられることになったことです。そのために、『開教の辞』における『未だ種々発表したい事もあるが、時期の推移に従って漸次発表する段取となるので、今は此(この)辺に止めておくのである』という内容のご発表が頓挫してしまったのです。
しかしながら、様々なご制約の中で同年11月にこうして御論文を発表されているのです。このご論文をそうした背景を鑑みた上で拝読させていただきますと、より肉薄してくるものがあります。
偉大なる神霊を明かす
ご論文冒頭の「はしがき」において、『何しろ本教は今迄の宗教とは余程異っており、既成宗教観念では一寸判り難いと共に其(その)点に本教の大いなる意味を見出すのである。早く言えば、今迄と余り異いがない宗教とすれば、発生の必要はないからである。』と述べられております。
これは世人に訴えていると共に、教団人取り分け教団幹部に理解してもらいたい御心なのだと受け止めることが相当だと思われます。メシヤ様ご在世中のご日常を拝しますと、国内外の情勢をつぶさに掌握されるために新聞、ラジオに耳目を傾けられると共に、日々学びを深められるために専門書に触れられております。その学びとは、以下の表現で手に取るように判らせていただきます。
『成程、真理そのものは未来永劫不変であるが、宗教自体の在り方としては、時代即応でなければならないのみか、寧ろ時代の指導的役割をするのが本当であろう。』
また、祭式や浄霊をどのようにお考えになっていたかを拝察する上では、次の文章が礎となります。
『本教は、元来神道に非ず仏教にも非ず、勿論キリスト教でもないと共に、本教には神仏基の何れもが包含されているばかりか、科学も本教の中に在って、而(しか)も現代科学よりも数段進んでいる。此(この)様に凡ゆる文化は悉く内在しているのが特異性である。』
この部分を基に、天津祝詞の由来や善言讃詞作成の御心を求めれば、祭式をどのように整えるかがわかります。2月のメシヤ講座では詳細に渉って説明したところです。
そして、はしがきの総括として世界救世(メシヤ)教を加護するご神霊に触れられております。
『そうして本教は一切の誤謬を是正し、よりよき文化たらしめ病貧争絶無の世界たる、地上天国を造らんとするのである。此(この)様な空前の大目標を掲げて、其(その)可能を確信するというのであるから、先づ世紀の驚異といってもよかろう。併し乍(なが)ら此(この)様な救世の大事業は、到底人間力で出来るものではない。としたら茲(ここ)に偉大なる神霊が本教を加護されている事を、信じない訳にはいかないであろう。』
この文章を受けて、2月掲載の『本教の誕生』において明確に主宰神を明かされているのです。
『では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。』
これが、『世界救世(メシヤ)教 教義』の冒頭に明記されているご神名なのです。昭和25年に教団人はこのことを自覚しなければならなかったにもかかわらず、『御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない』とされたことを多くの教団で今日まで引っ張ってきてしまったのです。
そして主神様のご経綸を担わせていただく上で認識しなければならないことを、以下のようにお述べになっておられます。
『主神の御目的は真善美完き理想世界を造るにあるので、それには凡べての条件が具備しなければならないので、神は其(その)時を待たれ給うたのである。其(その)時とは即ち現在であってみれば、人類は此事を先づ認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊時である』
時代認識と精神革命の自覚、実行を求められているのです。
神様へのお詫びを認識しない
こうしたことと関連して、二月に行われた各地のメシヤ講座では、メシヤ様の御教えの下に信仰形態を整えているにもかかわらず、節分祭や立春祭の意義を教えてもらえていない方々の如何に多いかを痛感いたしました。しかも、現在節分祭を執り行わない教団が増えております。
甚だしいのは「神言」を祈りの栞などから排除しているところもあります。お詫びをしない、という意思表示なのでしょうか。『精神革命』を強く願ったメシヤ様の御心から離れ、社会へ与しているように受け取れます。
それが現在の世界救世教の状況を造り出しているとも言えます。また、かつて教団紛争を引き起こしたグループが頂点に君臨する一方、その片棒を担いだ仲間が割れて改革を唱えているに過ぎない、という情けない現状です。真の改革に目覚めていただけると幸いなのですが。
中でも陳腐なのは、“メシヤであられる明主様”というような表現を用いていることです。素直に『メシヤ様』とお呼び申し上げればよいのです。それを何かもっともらしい理由をつけてお呼びしないのです。社会性重視などという文言も付け加えられるなど、これが50数年前から続いている企みの実態です。
『メシヤ様』とお呼び申し上げるだけで絶大なる御力をいただけるのですが、大変もったいないことです。お呼び申し上げるだけで、力そのものへ直接太く繋がることができるのですから、簡単なことなのです。そして、そのことが信仰の最重要事なのです。
しかし、あの手この手でお呼び申し上げることを阻止する働きがあるのです。その働きを打破することが真の精神改革なのです。
しかもメシヤ様は、そのご生涯を通して私達に在るべき姿を指し示されているのです。そのことを振り返り、再確認する日が教祖祭です。
教祖祭に捧げる感謝の内容・1
メシヤ様御降臨祭の折に、ご在世中のメシヤ様は神の座としていらっしゃると同時に“人間としてやるべきことは自分でやる”ことを貫き通され、その御姿がこの上なく魅力的なところだとお話いたしました。
人間の身として生涯努力されていたメシヤ様の御姿を一つひとつ耳にするごとに、“素晴らしい御方だ”という思いが沸々と沸くと共に、この部分が判っていないと、崇高なご存在の方を信仰している自分だからこそ“生涯努力を積み重ねなければならない”という思いに到らず、実践も出来ない旨の話もいたしました。
12月23日にメシヤ様が御肉体を持って神界からご降臨くださり、神として私達に救いの力と方法を授けてくださいましたが、実は“人間として肉体を持って降りられた”ということが重要であり、身をもって見本を示されたのです。人間の肉体を持って来られたからには、“人間としてやるべきことは全てキチンとやる”という姿勢をご昇天のその時まで貫かれました。
メシヤ様の余人と異なるところは、どのような境遇であろうとも、一旦ご自分がその使命を自覚したら、それをやり遂げてゆく、しかもどんなに大きくなっても(当時は信徒数30万人)、ご自身の身の周りのことはご自身で始末をされながら生活を送られました。そうしたご生涯を送られたのです。
私達に指し示された内容は豊富です。
神の座にありながらも御肉体を持って神界から降臨してくださり、私達に救いの力と方法を授けてくださいました。人としてご苦労を重ねられ、教祖として立たれるご準備をされました。そして、教祖となられた後も、冒頭述べたことを初めご苦労の連続でした。
その苦難のご生涯を閉じられた日が「教祖祭」です。人としてのご苦労に感謝申し上げ、メシヤ様のご悲願達成に全力を注ぐ誓いを捧げたいものです。
教祖祭に捧げる感謝の内容・2
また、メシヤ様はご昇天後の御光についての質問に対して、『霊界から出しますから同じ事です。反ってよく出ます。体があると邪魔になりますから』とお答えになっております。
そのお言葉から、私達に更に強く御光を出してくださるようになった日でもあります。浄霊を取り次がせていただく身としては『この日を期して御光が強くなる』という意義付けを以て、更に高い次元から信仰的に感謝させていただく日でもあります。
また、人としての有り様を身を以って示され、そして、地上天国建設の全ての準備を済まされて神界に戻られた日でもあります。準備を済まされたということは、後人に全てを託されたということです。私達は託されたご悲願を達成させていただきたい、と願っております。
そのためには、より強い御光と御力、叡智を賜りたいことを望みますが、そのためにはメシヤ様のご神格を明確に認識し、太く繋がる想念を確立しなくてはなりません。それが、普段に『メシヤ様』とお呼び申し上げることです。
メシヤ様は『困ったときは私の名前を呼びなさい』と、仰っております。スッとお呼び申し上げれば良い訳です。そうすれば絶大なる御力を賜ります。
先程も触れましたが、口ではただただ奉るけれども、中身のない論争が続けられております。メシヤ様は結果第一主義です。どのようにさせていただければ、絶大なる御力をいただけるのか、それさえ考えれば判ることなのです。
ご尊影を御神体としない理由
そして、このことは重大な意味を有しています。それは、『体があると邪魔になりますから』というお言葉から、ご尊影を御神体にはしないということに繋がるのです。
『景仰』には、『わしはまだ人間だなあ』という項があります。引用いたしますと、<私が部屋へはいって行くと、岡田さんはドテラを着て、ふところ手して、部屋の中を歩いていられるのです。と突然、立ち止まって、『ふところ手を出したら、どういうことが起こるか』と岡田さんが言います。で、私は、「そんなことはわかりませんが、手を出せば人間の形になります」と言いました。すると岡田さんは、『わしはまだ人間だなあ』と言いました(会社重役 松方鉄雄氏)>
「『景仰』を如何様に拝読するか」のコーナーでは編集のあり方に苦言を呈してきましたが、このように貴重な資料もあります。この文面から、メシヤ様は人間の形にこだわっておられます。このことから、ご尊影は人間の形であるために御神体としてはそのご存在を限定してしまうのです。
こうした論調を展開すると、メシヤ様の絶対性を否定すると騒ぎ立てる輩が出そうですが、神界にご復帰されたご存在に向かうあり方を求めているのです。そうして、こうした求道の証として日々鮮やかな奇蹟をいただいているのです。
今回掲載した冨田博明さんのいただいた御守護はその代表例です。読んでいただけば、明確に判ります。
メシヤ様に太く繋がらせていただき奇蹟の日々
癌の場合、私が立ち会った幾多の御守護例には特徴的なものがありました。癌が消える時は激痛を伴うことが多いのです。生身を剥ぎ取られるような痛みを訴えます。
冨田さんから深夜に電話が入った時は、訴える痛みが尋常ではありませんでした。それまでの治療の経過や症状の推移から痛みの原因を特定するのは難しいところがありました。しかし、これだけの痛みがあるからには必ず好転する、という思いから浄霊の更なる徹底をお願いいたしました。
冨田さんは浄化作用の原理と痛みについて理解され、私の対処法を正面から受け止められました。また、幸いなことに、冨田さんは娘さんが近隣に住んでおり、浄霊と看病で大変な奇蹟をいただかれました。体力を維持することが出来、絶大なる浄霊力をいただいて御守護をいただいたのです。
ですから、浄霊で必ず御守護をいただくのですが、体力が問題なのです。重篤者に対して浄霊を取り次ぐ場合に、特に注意を払うようにメシヤ様がご指示されているところが体力なのです。体力に注意を払わねばなりません。
そのためには、家族ぐるみの信仰が大切なのです。普段から家族で学びを深め、いざという時には対処できるようにしておかねばならないのです。いざという時とは、火素の増量による浄化です。浄化とは主として霊の曇りと薬毒の解消です。しかし恐ろしいことではありません。何故なら、私達には絶大なる浄霊力が授けられているからです。
最近の浄霊力は大変なものです。つい先日までメシヤ様や浄霊のことを知らなかった人が、一度浄霊力を伝授されると、古い信者さんで認識が浅い人よりも圧倒的な結果をいただきます。認識の差で結果を許されるのです。大変有り難いことです。
メシヤ教の代表である私に力があるから奇蹟が多いというのではなく、メシヤ様のご神格を明確に認識し、メシヤ様へ直に太く繋がらせていただく取り組みを重ねているからこそ、日々鮮やかな奇蹟を許されているのです。
メシヤ講座は、そのために活用していただきたいのです。
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