メシヤ講座・特選集no.81(平成19年10月分)

<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
科学篇

病気と医学

前述の如く、私は反文明の原因としての、戦争と病気の二大苦を挙げたが、其(その)外に今一つの貧困がある。然し之は戦争と病気とが解決出来れば、自然に解決さるるものであるからかかないが、先づ戦争の原因から説いてみると、之は勿論精神的欠陥即ち心の病気にあるので、之も肉体の病気さへ解決出来れば、共に解決さるべきものである。

右(上記)の如く病気も、戦争も、貧困も同一原因であるとしたら、真の健康人即ち霊肉共に完全な人間を作ればいいのである。然し斯う言えば至極簡単のやうであるが、実は之が容易ではない事は誰も想像されるであらう。然し私から言えば、決して不可能ではない。何となれば必ず解決出来得るだけの方法を、神から啓示されてゐるからで、之が私の使命でもあり、其(その)一段階としての此(この)著である。

従って先づ病気なるものからかいてみるが、病と言っても前述の通り、肉体と精神との両方であるが、現代人は普通病とさへ言えば、肉体のみのものと思ってゐる処に誤りがあるので、此(この)精神の不健康者こそ、戦争の原因となるのである。其(その)様な訳でどうしても人間が肉体と精神と共に本当にならない限り、真の文明世界は生れないのは言う迄もない。ではどうすればそれが実現され得るかといふと、それには勿論其(その)根本が解ると共に、可能の方法も発見せられなければならない。処が私はそれに関する根本義を発見し、而(しか)も絶対解決の方法迄も把握し得たので、茲(ここ)に詳細徹底的にかくのである。それに就(つい)ては先づ我々が住んでゐる此(この)地上の実相から解いてみるが、元来此(この)地上の一辺、今日迄の学問では物質のみの存在とされてをり、それ以外は無とされて来たのである。然し此(この)考え方たるや非常な誤りであって、無処ではない。人間にとって之程重要なるものはない程のものが、確実に存在してゐる事である。にも拘はらずそれが何故今日迄分ってゐなかったかといふと、全く唯物科学にのみ依存して来た結果であるからで、即ち唯物科学に於ての理論は、見へざるものは無と決めてゐた以上、之程進歩したと思はれる唯物科学でも把握出来得なかったのである。右(上記)の如く唯物科学で知り得ないものは、悉く否定の闇に葬って了った其(その)独断的観念こそ、学者の頭脳なるもののいとも頑(かたく)な偏見さである。之に就(つい)ては多くをいふ必要はあるまい程、人類の幸福が文化の進歩に伴はない事実である。それを之から漸次説き進めてみよう。

以上説いた如く精神と肉体共に完全なる人間を作るのが真の医学であるとしたら、現代医学は果して其(その)目的通り進んでゐるであらうかを茲(ここ)で検討する時、それは余りにも背反してゐる事実である。それ処ではない。寧(むし)ろ病気を作り、病人を増やしてゐると言っても過言ではない程の誤りを犯してゐる事で、それを之から詳しくかいてみるが、先づ医学なるものの今日迄の根本的考へ方である。といふのは医学は病気の原因が全然分ってゐないから、凡べて反対に解釈してゐる。勿論唯物科学本位で進んで来たものとすれば致し方ないであらう。

右(上記)の結果医学は病気の場合外部に表はれたる苦痛を緩和するのみに専念してゐる。従って医学の進歩とは一時的苦痛緩和法の進歩したものであって、其(その)方法として採られてゐるものが彼の薬剤、機械、放射能等の物質の応用である。成程之によって病気の苦痛は緩和されるので、之で病が治るものと誤認し、緩和法を続行するのであるが、事実は苦痛緩和と病気の治る事とは、根本的に異ふのである。即ち前者は一時的で、後者は永久的であるからである。而(しか)も其(その)苦痛緩和の方法自体が病を作り、病を悪化させる結果なのであるから問題は大きいのである。

何しろ唯物的医学であるから、人体も単なる物質と見るのみか、人間と人間以外の動物をも同一視するのである。それによって動物を研究資料として、病理の発見に努め、偶々(たまたま)何等かの成果を得るや、直ちに人間に応用するのであるが、之が非常な誤りである。何となれば人間と動物とは形も本質も内容も全く異つてゐる事で、之に気が付かないのである。此(この)理によって人間の病気は、人間を対象として研究されなければならない事は余りにも明かであって、之以外人間を治す医学は確立される筈(はず)はないのである。そうして今一つ斯ういふ点も知らなければならない事は、動物には人間のやうな神経作用がないが、人間には大いにある。人間が神経作用の為に、どのくらい病気に影響するか分らない。例えば、一度結核と宣告されるや、此(この)一言で患者の神経は大打撃を受け、目に見えて憔悴する事実は、医家も一般人もよく知る処であらう。処が動物にはそういふ事が全然ないにみても肯れるであらう。

以上によって見る時、現代医学の欠陥は、霊と体で構成されてゐる人間を、霊を無視して体のみを対象とする事と、人間と動物を同一に視てゐる点で、之が主なるものである事を知らねばならないのである。

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「伊都能売観音」様
入仏記念式典 挨拶

メシヤ教 代表  楳木和麿

ご描画の御前に集うことの意義

皆様、おめでとうございます。本年も、「伊都能売観音」様の入仏記念式典にそれぞれの所属教団を超えてご参拝させていただきましたことを、非常に目出度く存じます。

宗教宗派というものを超えて入仏記念式典を執り行うことが許されるようになりまして二回目の式典になりますが、更に新たな志をお持ちの方が加わりまして大変喜ばしく思います。

ただ今拝読していただいた御教えの中で『神格』というものを考えさせていただきますと、「伊都能売観音」様というご存在は天照大神様の親神様ということになります。天照大神様と言いますと天照天皇、天照皇后に対する御神名として一般的に使用されますが、正式には天照皇大御神(アマテラススメラオオミカミ)とお唱えする場合は天皇にあたり、天照皇大御神(アマテラススメオオミカミ)とお唱えする場合は皇后にあたります。

その親神様である伊都能売神皇の御前に参集させていただいている訳です。そして、私達が『神格をいただく道』を拝読させていただきながら人格形成を目指す時に、畏れ多くも目指す目標の御一方の神様でもあります。

伊都能売神皇は絶対平和主義であられましたので、約三千年前朝鮮半島から素盞鳴尊が侵攻してきた時には、闘わずして皇位を天照天皇に譲られて国外へ出られました。そしてインドで釈尊へ仏説を垂れたのです。こうしてご参拝させていただき御前に額ずく私達の普段の言動というものは、そうしたご性格の神様に手を合わせるに相応しいものでなくてはならないのであります。そのご性格に沿う心・言・行を目指すことが求められるのです。

このことをお互いに自覚できたならば、本日の祭典に集うことに更なる意義が生れると思います。私達はとかく日常生活に追われていますと、目指すべき方向というものを見失ったりするものです。また、日々の感情に押し流されたりいたしますが、こうした祭典を通して“今の現状では良くないのではないか”と振り返る機会を持つことができるのです。

宗教団体は、本来、主宰神のご性格というものを自覚するように教導しなくてはならないのですが、そうした例は少ないように見受けられます。ここに集う者は、そのご神格とご性格というものを正確に受け止めさせていただき、相応した姿勢を志すことができるならば、この上ない慶事と言うことができます

一昨日、晴天の中千歳へ降り立ったのですが、航空機から見下ろすと一面紅葉のジュータンのようでした。それから釧路へ移動したのですが、新夕張駅当たりで車窓から“絶景“と言いたくなるような紅葉を目にいたしました。そして釧路へ着きましたら、更に驚いたことに平地で紅葉が残っているのです。

本日ここへ向かう道すがらも、『全山紅葉の姿に神様のお召し物の裾模様を見ることが出来る』という話題が出て、非常に感謝の念が湧いたのです。嬉しさが増す反面、やはり“年々紅葉の時期が遅くなっている”という観を深め、“随分と温暖化が進んでいるなあ”と思わされます。

深刻化が思いの外進む環境問題

こうしたことに思いを馳せておりますと、今月、「メシヤ講座」参加者の皆さんへ紹介した「温暖化地獄(山本良一著・ダイヤモンド社)」の内容が身に沁みてまいります。この書籍は、大変読みやすく、研究者の警告を取りまとめつつ、各国政府温暖化対策の取り組み現状が紹介されています。読み進みますと、この時期に紅葉を楽しめる喜びの反面、気掛かりなことが目に付き、環境問題の深刻さに危機感を覚えずにはおれません。

今年の米の出来高は北海道が断然良いということです。九州は田植え後の水不足のために根付きが悪かったらしく減収が目立っています。そして様々な報告では、北海道米の味が格段に良くなっていると言われています。外食産業も随分と使用するようになって、かつての味を思うと隔世の感を深めます

温暖化が進むと様々なところで変化が出ていますが、書籍中殊に驚かされたことがあります。今までは、温暖化が進んでも海水面の上昇は100年でも58センチ程度だとされていたのです。ところが、今後100年の間に海水面が現在よりも5メートル上昇するということが報告されているのです。少なく見積もってのことですので深刻な事態です。これでは日本列島の形が随分と変ってしまいます。

欧州宇宙機関は9月14日、人工衛星の観測の結果北極海の氷が大幅に溶け「太平洋からアラスカの西側を通ってグリーンランドの西側から大西洋に抜ける航路が可能になってきた」と発表しており、海水面上昇がにわかに現実のもののように思わされます。

北極海の氷は、太陽光線を反射し温暖化を防ぐ役割も果たしていましたが、氷が減少すれば温暖化が加速される、と危惧を抱かせます。しかし、国政を賑わせている“インド洋給油”問題に対する正当性すら無意味になる事案になるのです。

それは、現在、日本からヨーロッパへ向かう貨物船の航路は、危険視されるマラッカ海峡、多額な通行料が必要であるスエズ運河を通過しなければなりません。しかし北回りができるならば、はるかに短時間で到着できることになります。

更にこのことは、海底資源の採掘権をめぐっての各国の動きに拍車を掛けています。温暖化が進むことへの懸念とは裏腹に、“国益”という美名の下に国際的な利権獲得の動きが熱い火花を散らしているのです。危機感を伝えつつも、同時に欲望が渦巻いています。

このような時こそ、信仰者が善導してゆかねばならない、と強く思わされます。

また、今注目を浴びている中村哲氏(ペシャワール会現地代表)が、医者でありながら独学にて水利工事法を身に付けアフガニスタン復興に尽力していることは、夙(つと)に知られています。氏の「温暖化の影響があるために水利工事をせねばならない」という報告は驚愕するものです。

かつては春になると氷河がゆっくり溶けて大地を潤し、農地に満遍なく水を行き渡らせていたそうですが、現在は一挙に溶けるので大洪水を起こすそうです。これは被害以外はもたらさず、農地を潤すということにはならないそうです。こんなところまで温暖化というものが暗い影を落としてのか、と考えさせられます。

しかも、水利工事の発破作業をテロと誤認しアメリカ軍が誤爆する、ということも「日常茶飯事だ」と言うのです。

何とも表現のしようもない事態です。これは民主党が政局に用いようとしている目論見とは別に、叡智を結集して対応策を考えねばならないことの一つです。

人類の叡智を結集する時

来月はロンドン支部発足のために英国を訪れますが、海外での『宗教宗派を超えた浄霊力伝授』がいよいよ開始されるという意義は格別ですが、それに加えて環境問題に対応する欧州の姿を目にして来たいと思います。

英国では、日常生活に環境リテラシーが行き届く努力を重ねられていると言われます。例えば、商品に二酸化炭素排出量や廃棄物排出量を表示し、その情報に基づいて環境への負荷の少ない商品を選択できるようにし、商品を購入する際に環境保全に寄与していることを国民一人ひとりが実感できるようにする取り組みです。

また、ロンドンではカーボンオフセットの取り組みについて見聞を深めたいと考えています。カーボンオフセットとは、日常生活で排出した二酸化炭素をオフセット(相殺)するという発想に基づいており、英国で考えられたことです。

オフセットするために二酸化炭素を吸収する植林や自然エネルギー事業に投資しようというものです。つまり、ある場所で発生している二酸化炭素排出を埋め合わせするために、他の場所で二酸化炭素の排出を回避または削減する、というものです。王室も積極的に取り組み始めている、ということです。

私としては、ロンドン西部の住宅開発地区のカーボンオフセット化に深い興味を抱いております。50年以上前にメシヤ様は地上天国の雛形づくりを提唱されましたが、現代的意義を見出さねばなりません。

それは、現代では時代苦というものを『病貧争』のみに単純に総括できない、ということを度々お伝えしている通り、時代苦の原因は複合的なものになっているからです。それだけに叡智を結集しなければならない時を迎えています。本日はそうしたことを踏まえつつ、人々が生きる意義を見い出すあり方を提起したいと考えます。

そうしたことに思いを巡らせると、、宗教の持つ使命がより大きくなってゆきます。しかし、それは本来の宗教としてのそれです。

自然宗教―進化の過程での猿と人間の分岐点

私達が宗教というものを考える際に念頭に置いておきたい観点として、メシヤ講座で自然宗教と創唱宗教という分類について触れました。問題提起的な手法をとりまして今月は更に考えていただきました。

一般に生命誌を辿ってゆきますと、600万年前のクロマニヨン人の遺骨が発見された時に、胸のところから花の花粉が検出されました。そのことから、死者に花を手向けたのだろう、ということになりました。葬儀を行った起源ということになっておりますし、自然宗教の始まりでもあるのです。

また当然ながら、このことが人間の始まりだということになっています。進化の過程で、人類と猿は枝分かれをしますが、ここが分岐点だろうということです。

つまり、宗教行為を執り行ったところで、猿と人間は枝分かれをしたのです。宗教行為を行うことが人間ということでもあるのです。取り分け、葬儀は人間のみが執り行います。動物は行いません。動物は自ら葬儀を行い、肉体を土に還します。ですから、事故死以外の動物の死体を私達は見たことがありません。

人類は、宗教行為を軸に、つまり自然宗教を通して生活を洗練しながら進歩してまいりました。また、民族を形成して民族によって独特な文化も培ってまいりました。

日本の場合、ここにお鎮まりの「伊都能売」観音様のご本体である伊都能売神皇を中心として、大和民族として洗練された文化を持つに到りました。そして、精神性が充分に熟成しました。

そのように精神文化が熟成した時に、主神様は、この世を一旦『夜の時代』にして、物質文明を発展させるようになさいました。そして将来物心両面の相俟った真文明を創るというご計画の下に約三千年前に『夜の時代』となったのです。『夜の時代』というのは、冒頭述べましたように朝鮮半島から素盞鳴尊が押し寄せてきたことから始まったことは御教えにある通りです。

夜の時代は、悪主善従の世界ですので、悪の方が勝ります。その主体は戦争が繰り広げられるということです。我々は非常に便利な生活をしていますが、便利さというものはほとんどの場合戦争によって培われてきました。九州から北海道まで2時間ちょっとで来れますが、飛行機というものがここまで開発されたのも、戦争があったからこそです。ライト兄弟が発明しましたが、そのままでは開発のスピードは上がらなかったと思われます。

やはり開発のスピードは戦争によって加速度を増しました。それは、戦争により国の予算の大半を軍事活動に注ぎ込むからです。開発に膨大な予算が組まれる訳です。しかも軍需産業の利権が絡み、開発競争には拍車が掛かります。

こうした唯物的な豊かさは、『夜の時代』だからこそ発展してきたのです。しかし、悪主善従の世界がズーッと続くと人類は堕落の一途を辿ります。それでは人類は滅んでしまいますから、人類に良心を留めるべく、教祖を持った宗教が生れ始めました。これが創唱宗教と言われている宗教です。

創唱宗教―それぞれの教祖の精神と苦悩

さて、創唱宗教の出現は『夜の時代』の到来と関連する、ということを各地でお話いたしました。その中で、最低限の良心を人類に留めさせるための役割ということで、全ての真理は明らかにされずに教祖となった旨を示しました。

これは、各教祖に多大な苦悩をもたらしたことと推察して余りありません。聖者であるがゆえに、真摯に、懸命に、ひたすらに取り組みつつも解決のない作業であった訳ですから。

世界宗教と分類される創唱宗教の内、最も古いものは、ご承知のように仏教です。お釈迦様が教祖となって仏教が生れました。そして約600年経った時にキリスト教ができているのです。そして更に約600年経ってイスラム教ということになります。非常に不思議な間隔ですが、私達宗教宗派を超えて地上天国建設の実現を考えてゆく時に、是非心に止めておいていただきたいのは、それぞれの教祖の精神とは何かいうことです。

それぞれの教祖が掲げたものと各宗教の成り立ちを見つめてみますと、お釈迦様の場合『人類の不幸の源は無知による』ということが胸に迫って来る内容です。何も知らない、ということが不幸を作り出しているということです。仏教の根底にはこれがあります。

それから約600年後にできたキリスト教。イエス・キリストの精神は『人間は強い存在』ということです。ですから自然を征服する、ということが出てくることになります。そういう思想が展開されます。歴史に最も現われた部分です。

それから更に約600年後にイスラム教ができます。マホメットの精神は『人間は弱い存在』というものです。

イスラム教については先に一度触れたことがあるので思い出していただきたいのですが、戒律に対する教祖の精神というものを見つめていただきたいと思います。例えば、女性の服装。目以外を覆い隠すのは、“男は弱い存在”ということに由来します。女性らしい魅力的なところを男性の目に晒(さら)すと、魅力に弱い男性が狂う可能性がある、という考え方です。

また、豚を食しない、という戒律には“人間は弱い生き物”という考え方があります。豚は雑食なので、弱い生き物である人間が食しては危険性がある、というものです。ラマダンも同じ考えですし、そこには優しい抜け道も用意されています。

このように素晴らしい考え方の下に構成されているにもかかわらず、原理主義になると異質になってしまいます。ジハードがテロに転用されると自爆ということが美化されてしまいます。因みに、第二次世界大戦での神道原理主義でも同様に「神風特攻隊」などどいう自爆を美化する行為が重ねられました。無責任なことです。

余談になりましたが、『無智』というものが教えられ、600年後に『強い存在』という考え方が出て、更に600年後に『弱い存在』というところから戒律を守る姿勢が出てきました。そうしたものの上に現代があるのです。そして、最終的にメシヤ様がご出現されて『それらでは不十分』とご指摘されたのです。そうしたことを認識していただきたいと思います。

それから私達はずーっと学習を重ねてきて、人間という存在の認識度が更に変ってきております。そういう時代の変遷の中で、私達はご縁をいただいているのだ、ということを、時代を見つめつつ自分達が宗教というものの中に身を置いているということを考えていただく機会にしていただきたいのです。

薬毒

『不十分』と言われた、間違っている原点は何かでありますが、メシヤ様は『世界に知らせよ薬禍薬害』と叫ばれ、『薬毒』をご指摘されておられます。

というのは、三千年前に日本に文字があったということを殆んどの方は知りません。三千年前に日本には、大体、七十五声に対応する文字がありました。しかも、そのわずかな数の文字で、全ての事柄を掌握していたとされています。

それは何故かと言いますと、薬毒がないので生れてからの全てのことを記憶していたのです。ですから文字が必要ないと言えば必要のない状況であった訳です。文字は皇室で行事の記録や祭事などで使用されていたようです。

しかし、現代人の私達は薬毒のために記憶力は劣ってきました。生涯を通して頭脳の二十分の一程しか使用しないとも言われています。ノーベル賞受賞者で十分の一を使用するということです。殆んど使用しないで生涯を閉じる、と言っても過言ではないのです。

薬毒を排除しながら生活してゆきますと、段々と頭脳を使えるようになります。そうしたことを考えてゆきますと、今月は大変な告白を耳にいたしました。それは、“薬毒は恐ろしい”と心底思わされる事柄です。(具体的な内容は割愛します。)

日常生活の中で、人生の分岐点に立つなど様々な判断を迫られた時に、人間は迷います。そのような時に叡智をいただきたいのですが、中々思い通りにはゆきません。そうした繰り返しなのですが、これは三千年来の薬毒の集積の上に頭脳が働き難くなっているので、鮮明な頭脳を持ち合わせてないように感ずるのです。そのことを分っていなくてはならないと思います。

これから更に幸せな人生を歩んでゆくためには、どうするかということになりますが、私達には幸いにも御教えというものをいただいておりますので、日々御教えに触れつつ生活を送らせていただこう、ということで良いと思います。

本日ここまでの車の中で、支部長さんから「色々な問題に出くわしたり、色々な相談を受けたりしますが、毎日御教えを拝読していると、たまたま前日拝読した御教えが答えになるようなことで電話をいただくことが多いのです」という話を伺いました。

実は私達は叡智をいただきたいのですが、その上に神智というものがあります。これは学ばずして授かる智慧だと教えられています。こうして日々御教えを拝読させていただきますと、必要なことは事前に神様の方から知らされているかのように眼に入ってくるのです。

そういう境地にお互いに立たせていただきたいですね。そうした日々を送らせていただくと、お互いに意義ある人生となるのではないか、と受け止めさせていただきながらこの祭典を迎えさせていただきました。

どうか「伊都能売観音」様の御前に座らせていただいた時に、自分達の生き方を振り返りながら、これから“より良い人生”を歩んでゆき、加えて周囲の方々へ“より良い人生”を提供してゆけるように思いを膨らませる機会にしていただきたいことを願がっております。そうした意味で、本日を新たな出発点にしていただければ大変有り難い訳です。

本日は遠方からもご参集いただき、皆様と入仏記念式典を執り行なわせていただいたことを大変嬉しく思います。ありがとうございました。(要旨)

<付記>

創唱宗教は、教祖の精神に基づいて形成され、展開されてきました。ところが精神が歪められたり、為政者に利用されるなどにより、変貌を遂げてきたことも事実としてあります。そうしたことに対する理解がなされていませんと、私達が宗教を正しく理解してゆくことは出来難くなります。

と言いますのは、宗教というのは“やろうと思えば、すぐに出来る”という性質を持っているからです。そして、すぐ出来るということが必ずしも宗教を正しく理解するということにはならないのです。そのため宗教を極め、普遍化してゆくということに繋がり難い側面を持っています。

そこで、もう一度“現代社会の諸問題は文化の根底にある宗教を忘れたところから発生する”という点について考えてみていただきたいのです。

宗教を忘れると何故諸問題を発生させるのか

人は宗教行為を執り行ったが故に人になりました。ですから“宗教が嫌いと言う人は人間ではない”と言えるのです。

では、現代人の中で「宗教が嫌いだ」と言う人が多いのですが、現代人は本当に宗教が嫌いなのか、ということを考えますと、「NO!」であります。大概の人は正月に自然な形で初詣に行きます。神道を大切に思っているからかどうかは別ですが。また、クリスマスをほとんどの日本人が祝います。無意識ながらキリスト教徒となっているのです。結婚式も教会で挙げる人は大勢います。

また、仏教形式のお葬式には必ずお数珠を持参します。お数珠を手にすることにも余り違和感を感じないようです。ですから、宗教を嫌いな人は余りいないと判断しても良いのです。

「宗教が嫌い」と言う人は多いのですが、そのほとんどの場合「宗教団体」のことを指し、それを嫌うのです。また、その意味するところは、おおよその人が嫌う宗教は、創唱宗教ということにもなり、複雑な思いにもさせられます。

これは、各教祖が苦悩したこととも通じます。真理が全て明らかにされていないために、布教の本来のあり方を見失い、教団執行部は視野狭窄状態となってしまうのです。その指導の下に教化されるので、違和感が生じるのです。

そこで生命誌をもう一度思い出していただきたいのです。38億年前に地球上に生命が宿ってから進化を遂げて、猿と人間が枝分かれをしました。その時に決定的だったのが宗教行為を行った、ということでした。動物は、死を迎えると姿を隠します。自らの死体を自ら埋葬する、という表現を用いました。

事故死、並びに人間に拘束された場合を除いて、私達は動物の死骸を目にすることはありません。人間は他の人に埋葬してもらいます。これが決定的に人と動物の違うところです。

故に、人間が人間であり続けるためには、宗教行為が伴うのです。この場合、死を悼むということがあります。死を悼むという精神性が欠如してくると、悲惨な事件が起きます。その根本義からずれると、人間生活ではなり難くなるのです。

私達が宗教観の整理を試みている理由は、人類の歴史を的確に把握し、メシヤ様が進められようとされた御神業を正しく理解するためです。そして、本来の宗教の使命を果たすためなのです。

使命を果たす主眼は、本来の宗教のあり方を示す『宗教改革』と『医学革命』です。そして、これが『主神様のご意図』というものです。何故なら、すでに『最後の審判』は始まっているからです。始まっているばかりではなく、様々な学説を考察すると5年後の12月23日にピークを迎えるのではないか、と思えるのです。

『最後の審判』の型と『薬毒』

最後の審判の型ということで考えてゆけば、『何が正しくて何が間違っているのかが判らないような時代となる』というお言葉をしっかりと受け止めねばならないと思います。

今、様々な事象を見つめてまいりますと、絶えず最低“二面性”を考慮して判断してゆかねばなりません。今回取り上げた北極海の氷が大幅に溶けている問題にしても、環境問題としては深刻さを増す現象です。しかし北回りの航路が可能になる、という話だけを捉えれば、夢のある現象のようにも聞こえます。

しかし、現実的には、温暖化が進めば地球環境は激変し、様々な生物の生息地が北上しますし、植物の繁茂地も北上します。そして“種”の絶滅が進んでしまいます。人類にとっても深刻な事態を招くのです。今こそ叡智を持って対処してゆかねばならないのです。

確かに叡智が必要なのです。叡智を人類が取り戻すためには『薬毒』を消滅させなければなりません。

今回神代文字について触れましたが、当時は現在使用されている平仮名程度の数しか文字はありませんでした。それは、ほとんどの人が記憶力抜群でメモを取らなくても良かったからです。当時の文字は、集落全体の記録や祭事に用いられ、皇室が主として用いていました。

この記憶力が弱まった理由が薬毒なのです。因みに、薬は人類の頭脳や体力を弱わらせ、人類を支配するためのある陰謀のためであることは言うまでもありません。その陰謀に、見事に嵌(はま)っているに過ぎないのです。

そして、『薬毒』という場合には、所謂身体に入れる薬剤や食物に残留する農薬や化学肥料、食品添加物に加え、日常生活に入り込んだ化学物質があります。メシヤ様によって知らされた『薬毒』は、『世界に知らせよ薬禍薬害』ということで運動方針はご在世中から明確です。

しかし、この運動の母体と自負している「東方之光教団」や「いづのめ教団」が、『薬毒』論を否定する行為を重ねているのです。実はこれが最後の審判の型なのです。明確に御教えを示されているにもかかわらず、様々な理由をつけて巧妙に否定しているのです。

そうした姿勢は、私達の日常にもジワリジワリと忍び込んでいるのです。例えば、パーマや毛染めは身体に良くないことは承知しつつも、「老け込むよりずっと良いのでは・・・」等という理由を並べます。“これ位は・・・”と思った瞬間に油断が生じ隙ができてしまいます。その隙が狙われるのです。

こういう場合、メシヤ様は『(真理を伝えるが)そのことを採用するかしないかは本人のご随意である』というご姿勢です。ですから私も、精一杯お伝えしますが、強要はいたしません。

正確に見つめてゆかねばならない

先月は、メシヤ講座・特選集で感冒について詳述されている部分のご論文を掲載していますが、皆さんで正確に把握していただきたいことがあります。

先程の事例に出たパーマを初めて経験した時はどうだったでしょうか。恐らくほとんどの方が大変な痛さを体験されたのではないでしょうか。これは地肌に薬品が沁み込んでいるということです。

しかも2回薬品を用います。その理由は何かということをご存知ない方が意外と多いようです。初めに使用する薬品は髪の毛を拡げる働きで、拡がったところへ形を維持する薬品を2回目に入れるのです。当然、地肌にも同様の作用がある訳です。

また、咳止めも大変恐ろしいものなのです。“咳とはいったい何”かということを考えれば、大変な錯覚をさせられていることに気付きます。咳は気管に痰が出来て発症することが多いのですが、痰を気管に貼り付けてしまえば楽になったように感じるのです。謂わばそのためのノリなのです。

解熱剤にしても、発熱の原因を治すことではないことはご承知の通りです。発熱を促そうとする中枢を、謂わば麻痺させてしまうのです。身体は発熱を促そうとしているにもかかわらず、薬剤でそれを抑えようとするのですから、身体特に中枢に対する負担は大変なものです。

こうしたものが長年身体に蓄積された場合、どのようになるかは容易に考えられると思います。新陳代謝が鈍る年齢に達した時に発症する症例はこうしたものの複合が原因なのです。

判った時から始めるしかありません。『今日ただ今、成すべきことをすぐ実行する』ということを生涯貫かれたメシヤ様のご姿勢を鑑として、私達も実践させていただきたいものです。

御神業というもの

御神業というものは、特別のことのように捉えがちです。何か神秘的な、不思議世界を探求するように捉えてしまいますが、メシヤ様は『当たり前のことをする人間を造ること』と教えられております。

三千年間の『夜の時代』に薬毒の影響で、体力と思考力を弱められたために『当たり前』のことができなくなった現代人についてご指摘されている数々の御教えを自らに受け止め、自らが実践に努めて、その感化によって御教えを宣べ伝えてゆくことが御神業なのです。

<参考資料> 「温暖化地獄(山本良一著・ダイヤモンド社)」

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