メシヤ講座・特選集no.66(平成18年7月分)

<御教えより>
医学試稿

(1939年文創のまま)

第一篇  森羅万象の構成

霊主物従

凡ゆる一切の物に霊があるが、然(しか)らば、霊と物質とに就ての関係を瞭(あきら)かにしよふ。それは、眼に見えない無に斉(ひと)しい霊が主であって、物質は従といふ事である。従而、霊が物質を支配してゐるのであるから、人類社会に於ける如何なる事でも霊の作用であって、霊界に起る事象がそのまま現界へ移り、霊が動けばそのまま物質が動くのであって、恰度人間が手足や舌を動かす場合、それは手足や舌が先へ動くのではなくて、心が動き、後に手足が動くので、ただ霊主に対して起る物従の遅速はあるものであるが、多くの場合、非常に速いものである。茲(ここ)に二、三の例を挙げてみよふ。人間が人を訪問しよふと思ふと同時に、霊の方はお先に先方へ行ってゐるので、其(その)場合、霊と肉体とは、霊線とでも称すべき線が繋がれてゐるのである。よく“噂をすれば影”とやら―といふ事があるが、それは、其(その)人霊が来てゐる為に、その霊に噂をする人々の霊が感じる為である。彼の有名な那須の与市が、扇の的へ向って矢を番(つが)へ、一心に那須権現を祈念すると、何処よりか一人の童子来り、その矢を持って空中を走り、扇の的を射抜いたのが見えたので、直ちに矢を放ったのであるといふ由来は、那須権現記に書いてあるが、之は事実あり得べき事と思ふ。

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「景仰」を如何ように拝読するか(6)

メシヤ教  楳木和麿

はじめに

メシヤ様には、生涯一貫して実践されたことがあります。

挨拶をする。嘘をつかない。時間を守る。約束を守る。整理整頓をする。物を大切にする。無駄をしない。言葉を大切にする。等々です。

やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な至極当たり前なことを途中でやめることなく、教祖となられてからもず-っと行なわれました。最高位のご神格を有された後も、‘今日ただ今、できることをする’という姿勢を貫いておられます。

また、教祖となられてからのご多忙な毎日でも、全国紙に目を通されチェックし、夜他のお仕事をされつつ奉仕者に読み上げさせておられます。散歩の際にもラジオを携帯して社会情勢に御耳を傾けられておられます。しようと思えば誰にでもできる形で‘情報収集’をされています。

一例ではありますが、この一貫して取り組む御姿こそがメシヤ様の実像です。

『説くのは私、まとめるのはきみたち』の項

≪本文≫

明主様(メシヤ様)は、『私の指導を受けていればいいんだ』といつも言われました。

それで私はある日、「それを、ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」と申し上げますと、明主様(メシヤ様)は、『そうだ』とおっしゃいました。

そういうことから、御神書(宗教篇)をまとめ、整理するという仕事が始まりました。

このことについても、ひとつひとつ伺ったところ、明主様(メシヤ様)は、『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ。私は時に応じて説く。それをまとめるのはきみたちだ。それをいちいち私にきくことはない』とおっしゃいました。

そして、明主様(メシヤ様)は、『これからの若い者は、教えがしっかり入っていなければならない。教えを通して思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』とおっしゃいました。(教会長

≪解説≫

この一文は、私達に大きな示唆を与えてくれるものです。

まず、メシヤ様の『指導』を「ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」という問いに『そうだ』とお答えになっています。救世主としての絶対的な自信に満ち溢れたお言葉です。

このお言葉通りに、御教えに従って実践すれば必ず鮮やかな奇蹟をいただき、私達は確信を深めてまいりました。メシヤ様として現界にお出ましになり、私達に救いの力と方法をお授けくださった訳ですから、その通りにすれば必ず御守護いただけるのは当然と言えば当然なのですね。

換言すれば、御教え通りに実践して御守護をいただけないほうがおかしいのです。また、抱えている問題の解決が許されないというのもおかしいのです。御教えに沿って対応すれば、方向性は自ずから定まるからです。

『時に応じて説く』

守るべき御教えを「教」として、それに基づいて世の動きを見て「論」を展開する。この「論」というものをお説きになることを『時に応じて説く』と、仰ったのであろうと拝察できます。

メシヤ様は、絶対的な救済力をお示しになりつつ、ご自身の御経綸上の位置関係を数々の詩歌で詠まれております。収録されている『詩歌集』を垣間見た上で私達の心得ておくことは、『新聞、ラジオを通して時代の動向を見極め、主神様の御経綸を把握されていた』という点です。これは、私達の歩む道を踏み誤らせないための範でもあります。

『時代の流れこそ、主神様の御経綸の現われである』というご認識がおありになった、ということを私達がまず認識していなくてはなりません。そうしなければ、教線の拡大と共にカルト化してしまう恐れがあるからです。また、大きくなれば既成宗教化してしまう危険性もあるからです。

『まとめるのはきみたちだ』

次に『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ』とおっしゃっておられます。このお言葉が御神業を受け継ぐ者のあり様だと拝察できます。

前述のように決して動かされない「教」があり、時に応じて展開された「論」がありますが、「論」はさらに時代の推移とともに変化することもある訳です。

「世界救世(メシヤ)教 教義」について考えますと、『抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立するべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。』は不動のものです。公式にご発表された御神名も唯一無二です。

ところが、『・・・主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い・・・』というところは、現在では変わらなくてはなりません。教主という御座も代わられていますし、まして弟子の立場からすると、『救世主(メシヤ)』という尊称が自然に出てまいります。

メシヤ様は、御自ら『自分がメシヤである』とお述べにはなっていません。だからこそ、聖書を引き合いに出されているのです。また、『救世主八大資格』を述べられ、『その条件を具備する者を見出せば、其(その)時こそ彼に指導を受け、光明を被る事を得る。』とされております。

そして、『開教の辞』の中では、『・・・観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲(ここ)に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。』と明言されております。

そのことから、『主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い』というところを『主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い』とするのは当然なことであります。また、その作業もこのお言葉に基づいて執り行ったことなのです。

しかも、教祖のご神格がより明確になり、そのことを信ずるところからご昇天後の新たな信仰が始まるのです。

「<神界通信>より」参照)

『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』

以上のような基本の上に立って思想というものを考えてみれば、各個人の体験に基づいた発見や学び、悟りというものが‘点’として生まれ、それらが御教えと結びついて線となります。御教えの実践と学びを積み重ねることで、線はやがて面となります。

更に、それらに時代性が加わって原因と結果が把握できるようにもなり、思考が立体化してゆきます。このように立体的な思考体系ができ上がってゆくと、思想性が身に着いてゆくということになります。

メシヤ様は、御教えの拝読を強く求められると共に、『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』と、釘を刺されています。肝に銘じておきたいところです。

そして、前述のように「教」、「論」がしっかり組み立てられて、現代社会でどのように生きるかが「律」です。これが何時もお話しする「教・論・律」で、宗教生活の基本になります。また、この「律」には、冒頭述べましたようにメシヤ様が生涯実践された項目が大前提としてあります。

メシヤ様が示されたそのままに取り組む姿勢が私達にある限り、どのように大きな組織形態となろうとも、自分で自分を守ることができるのです。自分を守るとは、邪神に乗ぜられない、という意味であることは申すまでもありません。

<神界通信>より

メシヤ教  楳木和麿

今回の「『景仰』を如何ように拝読するか」は長くなりましたが、2回に亘る<神界通信>から拝されるように「世界救世(メシヤ)教」復興運動の機運が高まってきましたので、この時期に基本的な捉え方を反復していただくように整理しておきました。

また、不思議体験をされ、自らの因縁使命を自覚される人も増加していますので、尚一層基本に立ち返って御神業を担っていただくために、考え方をまとめておきました。

私自身、「世界救世(メシヤ)教」復興運動を開始する時期を待たされておりましたが、いよいよ時期が到来した観があります。そして、その運動に必要な方々は選任されているようです。もちろん、今日まで片仮名のみの表記でメシヤ教の御神業を展開してきたことも深い意味がある訳です。具体的取り組みの見本を提示しつつ、来るべき時にそれを普遍化するためだったのです。

「世界救世(メシヤ)教」復興運動の根拠

そこで、「世界救世(メシヤ)教」開教時を振り返っておきます。メシヤ様は、昭和25年2月4日に開教を宣せられております。そして『私は、これまで顧問の名の下に、いはば蔭にあって経綸を行ってゐたが、漸く基礎的工作も出来上ったので、茲(ここ)に表面的活動に移る事となった訳である』と述べられております。(「信仰読本」12頁参照)

ところが、2月18日付で『救世(メシヤ)教の名に就(つい)て』を発表されています。その末尾を『以上の意味であるから、メシヤとは救世の意味だけであって、今後の活動に適合する為のもので他に意味はないので其(その)事を茲(ここ)に断わっておくのである。人によってはキリスト教に関係のある名称だから、時局便乗主義からと思うかも知れないが、そういう点は些かもないのである。』と、意味深長な表現で結ばれています。

これは、開教に対して異論を唱える申し入れがあったことに対する発表でしょう。また、この時期新聞社の取材方法や問い合わせに対しても度々ご批判を加えられております。この二点の事柄は、開教と同時にメシヤ様の御意図とは別の働きによる暗雲がすでに立ち込み始めていた、と推察できます。

そのような中、同年3月5日、6日、7日に

「五六七大祭」

 

が執り行われ、『私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいはない。之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐるからでもある。』と述べられております。

そして、『・・・勿論教も必要であるが、それ以上大神力の発揮がなくてはならない。といっても生神様的個人の力でもむづかしい。どうしても全人類を主宰し給う主の神即ちヱホバの絶対力の発現である。』と、主宰神について明言されております。

さらには、お言葉の最後を『此(この)事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。』と締められております。

このお言葉の直後、同3月11日付で『世界救世(メシヤ)教 教義』をご発表になられているのです。

しかし大変残念なことながら、当時の教団を暗雲が覆い尽くしました。一つの形としては、弟子達の不始末による5月8日からの「ご法難」です。

もう一つの形としては、「ご法難」後にメシヤ様へ内外から課せられた様々な‘制約’です。結局、『開教の辞』でお述べになられた『時期の推移に従って漸次発表する』とされた内容は実現されませんでした。‘制約’なしに唯一公式発表されたのは『世界救世(メシヤ)教 教義』だけになってしまったのです。

今後、「世界救世(メシヤ)教」復興運動を展開する上で『開教の辞』の具現化が必須であることを念頭に置き、陣容を整えてまいらねばなりません。そして、運動の端緒は『世界救世(メシヤ)教 教義』であることを再認識していただきたい、と願うものであります。≪本文に戻る≫

 

<お言葉>

五六七大祭

愈よ本教救世(メシヤ)教となって第一回の五六七大祭を例年の如く三月五日、六日、七日の三日間に執行はれる事になったのは、まことに目出度い限りである。

此(この)意味によって、今日の祭典の重要なる意味を思う時感慨無量である。私が御神業に身を投じた抑々(そもそも)の第一歩は昭和三年二月、節分の日であったから、今年で二拾三年目である。此(この)二十三年間に基礎工事が成ったので、愈よ本格的に発足すべく陣容を整え、世界人類救済の大旆(おおはた)を翳(かざ)して、本格的活動に入らんとするのである。言はば今迄は楽屋で扮装していたようなもので、扮装が出来上がったので、茲(ここ)に舞台へ登るようなものである。

大体、メシヤとはキリスト教と深い関連があるので、此(この)解釈は欧米に於ても諸説紛々として今以て決定はされないようである、というのは人智では深い神秘の奥を探り当る事は困難であるからである。

私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいはない。之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐるからでもある。尤も仮にメシヤの降臨などと思はれでもしたら大変である。世界中からワ-ワ-とやって来て、到底仕事など出来るものではないからである。

今日確実にいえる事は、世を救ふべく大経綸を行ふ事である。之は現に私が行ひつつある事実を見れば判る。救世(メシヤ)教の名を冠したのもその為である。

茲(ここ)で特に言ふべき事がある。それは凡ゆるものが世界的になった今日、既成宗教は未だ殆んどが、限られたる地域的救の業であるに見て、全人類を救ふべき使命ではなかった事を知るべきである。只だキリスト教のみは、全人類の救ひが使命であるから、今日の如き大を成したのである。といっても現在の如き全人類の一大苦悩を救い得らるるかは大いに疑問の余地があろう。何となれば事実が明かにそれを示しているからである。忌憚なくいえる事はもはや宗教そのものの力ではどうにもならないので、之は識者の等しく唱える処である。茲(ここ)に於て率直にいえる事は、宗教以上の力が出なくてはならない事で、これが超宗教でなくて何であろう。

元来、宗教とは読んで字の如く宗祖の教である。彼のバイブルといい経文といい、コ-ランというも畢竟文字を介して教え人間の魂を目覚めさせるのであるから、畢竟人間の自力である。処が今日はもはや人間力では間に合わない事になった。勿論教も必要であるが、それ以上大神力の発揮がなくてはならない。といっても生神様的個人の力でもむづかし。どうしても全人類を主宰し給う主の神即ちヱホバの絶対力の発現である。勿論人類発生以来今日まで、右(上記)のような大神力は出なかった。それは地上天国準備だけの力でよかったからである。言はば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である。処がいよいよ時期熟して世界は茲(ここ)に一大転換と共に、天国樹立といふ神の理想実現となったのである。

此(この)事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。(昭和25年3月11日付発表) ≪本文に戻る≫

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