メシヤ講座・特選集no.60(平成18年1月分)

<御教え>
医学試稿
(1939年文創のまま)

はしがき

岡田大先生が創始されたる病気療法は、名称は指圧療法の名を用ひてゐるけれども、実際は、本当の意味の指圧療法ではないので、適当な名称が見当らない為、やむを得ず人口に膾炙(かいしゃ)した指圧療法といふ名を用ひられておったといふ事は、度々先生から聞かされたのであります。そうして、此(この)療法の原理に就ての講義を筆記したのが此(この)一篇であります。

第一篇 森羅万象の構成

凡そ、天地一切有りと凡ゆる物の原素としては、大別して、私は三つに別けます。その三つは何かといふと、火と水と土であります。如何なる物と雖も、火と水と土に関りのないものは決して在るはづがない。否、火と水土それ自体が此(この)宇宙であり、万物の実体であるのであります。そうして、火水土そのものの中心即ち根源は何であるか、申す迄もなく、火は太陽であり、水は月球であり、土は地球であります。そうして、此(この)火水土を経と緯とからみますと、経は日月地―即ち太陽が一番上で、中間に月球があり、一番下に地球があります。之は日蝕の時に天を仰げばそういふやうになってゐます。太陽面を中間の月球が隠す―といふ現象がよく証明しております。

次に、緯は如何であるかといふと、之は経のやうに段階的ではなく、全体的密合であって、火と水と物質それ自体が一つの存在になってゐるのであります。例へていへば、此(この)空間そのものは、火と水の調和であります。即ち、火の熱と水の霊と密合調和して、生物の存在生活し得らるるやうに出来てゐるのであります。若し、火ばかりであればそれは一瞬にして爆発し、否爆発も起らないで、無の世界になって了ふのであり、水そのものばかりとすれば、氷結の塊が存在し、それ以外は、「無の世界」になるのであります。

此(この)理をもっと解り易くいへば、火の燃ゆるといふ事は水気があるからで、水気が無ければ、火は燃えず、恰度真空の中で火を燃そうとするが如きものであります。又、水の流れ、雲の動き、水蒸気等の動的現象は火の熱に因るので、火気が無ければ氷結の塊となる丈であります。

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「景仰」を如何ように拝読するか(1)
メシヤ教代表 楳木和麿

はじめに

創唱宗教の信仰生活とは、「教祖の精神を現代に求める」という取り組みの積み重ねである一面を有しております。

「教祖の精神」とは、御論文と問答、詩歌の中に脈々と流れております。それ故に御教え拝読が大切なのです。そして、世界救世(メシヤ)教系列教団で「景仰」が何故ベストセラ-となったのかを考えると、そこに大きな存在意義を誰もが見い出したからに違いありません。

生き神様のご日常をつぶさに垣間見ることができ、様々な時所位の人々への接しられ方を学ぶことができます。そして、何より、教えを垂れるだけでなく御自ら教えの実践者であられたことを証し立ててくれる内容が、活き活きと伝わってくるからであります。

一方、教団としては、「景仰」の拝読の仕方に深みが欠けると、本来の働きを遂行できない事態を招いてしまうことも事実です。それは、教祖のご神格に大きく関わるからです。『神様のされることには無駄がない』『神意は奥の奥のまたその奥にある』というお言葉から拝察すると、お一言お一言に深い意味がこめられている場合もあるということになります。

そのお一言をどのように捉えてゆくか、ということが求道であります。

求道というものは、少しでも油断すると停滞してしまい、堕落する恐れがあります。人間の弱さから来るものです。そのために、絶えず適度な緊張感を持って教祖の立ち居振る舞いに触れ、お言葉に耳を傾けていなければなりません。

当然、側近奉仕者の掛けていただいたお言葉に対して、上司はどのような意味があるのかを求めてゆかねばなりません。何故なら、教祖御自らご口述された原稿を何度も推敲され、万人誰もが理解できるように努められたからであります。『神のお言葉』を人間としてどのように求めてゆくのか、という取り組みの鑑がそこにあります。

『きりょうはいいが、中身が悪い』の項

≪本文≫
明主様(メシヤ様)はクサヤがとてもお好きでした。それからカメイド大根を一夜づけにしたものとか、果物ではミカンを好まれました。

しかし、リンゴは『きりょうはいいが中身が悪い』などとおっしゃってあまり好まれませんでした。(側近奉仕者)

≪解説≫
この短い文章の中には、考えなければならない内容がしっかり詰まっております。まずクサヤというものとリンゴというものを対比して記述されており、様々なことが頭を巡ります。

多様な価値観をお認めになり、しかも、それらを緩やかに束ねてゆかれようとされた方が何故好き嫌いを表明されたのか、ということです。まず、リンゴのことですが、創造主のお立場からすると好き嫌いがあるということは不自然です。

リンゴは例えとして、というのが自然

どちらかと言えば、例え話と受け取ることの方が自然のように感じられます。つまり、リンゴに例えられて『あなたも、きりょうはいいが中身が・・・』ということをご指摘された、とも考えることができるのです。

もちろん、押し付けるということはなさいませんので、『受け止めることができれば、素晴らしい』し、『受け止めることができなければ、時期を待つしかない』ということであられたと思われます。『教えというものは身魂相応に受け取ることができる』ということを繰り返されていますので、当然そうした願いがおありになられたと思います。

奉仕者の上司の方が「それはあなたも『中身を磨け』という思し召しではないのかな。私ならば、そのように受け取らせていただき、一層精進させていただくよ。しかし、あなたのお蔭でこのようなお話を伺うことができて、有り難かった。ありがとう。」とアドバイスしていたらどうだったでしょう。その後の教団の教化育成は随分と変化していたのではないでしょうか。

そうした解説を加えてくれた先達に恵まれた方々は、即向上へと繋がり、さぞ幸せだったことでしょう。そして、信徒みんなの課題として受け止めることができたならば、さらに幸せが拡がり、なんと素晴らしい宗団となったことでしょう。

クサヤについては

それでは、対比されるクサヤについてはどうでしょうか。まず、特異な臭いで知られています。そして、その味は一度ひきつけられた人は忘れられなくなり、特に酒の肴には最適という人もいます。クセがあるが、これが非常に良い、という訳です。このことについては次の引用文が参考になるかと思います。

宮大工棟梁であった故西岡常一氏は「木のいのち木のこころ」という著書で「癖(木の)というものはなにも悪いもんやない。使い方なんです。癖のあるものは使うのはやっかいなものですけど、うまく使ったら、その方がいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな」と述べております。

クサヤを通して、『癖は考えようによっては良いところとなる』、『持ち味を生かしてやれば、力を発揮することになる』ということを私達に教えられているように思えてなりません。

そして、『異質な人と人がお互いに認め合って、多元的な価値観を認め合って、そして持ち味を発揮できるように、お世話に当たりなさい』と教えられていると受け止めることができれば、素晴らしい宗団となることは間違いありません。

江戸っ子流の喜ばれ方があるはず

それから、クサヤそのものについても、もう少し突っ込んでお尋ねになれなかったのか、と思いますね。突っ込んでくれれば、初めてお召し上がりになった折の逸話や、どのように好まれたのか等、味わい深いものがあると思います。

奉仕者という立場ですから、恐れ多くて突っ込みはできなかったこともあるかと思いますが、メシヤ様は江戸っ子ですから、かえって喜ばれたと思えてなりません。立場の上の方は必ずお話しを伺っていると思います。それらを、編集の際に添えていただきたかったですね。

また、リンゴについても、リンゴを食材にしたアップルパイやリンゴを擂(す)り込んだカレ-などはテ-ブルにお出ししなかったのでしょうか。食事を担当した奉仕者の方々は挑戦してみなかったのでしょうか。「誠」とは、そのような取り組みの中に垣間見ることができると思います。

その挑戦があって、メシヤ様はどのような反応を示されたのか知りたいところです。献上品であった「鮎」の焼き方についてお叱りをいただいた方の記述に照らしてみると、きっと新たなお話が積み上げられたことでしょう。そのような編集があれば、もっと有意義だと思えますし、ただ単に「メシヤ様はリンゴを好まれなかった」ということでは、深みに欠ける編集のあり方だと感じます。

≪問題解決するための留意点≫
「教祖の精神を現代に求める」ということは、このように「教」、「論」、「律」で組み立てることによって成り立ちます。お言葉が「教」であり、それをどのように受け止めるかが「論」で、受け止めたことをどのように日常生活で実践してゆくのかが「律」です。

今回比較的わかりやすい事例を取り上げて解説いたしましたが、大切なのは受け止めたことをどのように実践するか、ということであります。その意味で、今回掲載する次の「体験記」は非常に参考になると思われますので、是非活用していただきたい、と願います。

信仰は力を授ける

体験記に戒律的な取り組みが出てまいりますが、何故その取り組みが必要なのかという説明が「論」です。そして、その根拠となるものが「教」です。御教えですね。そして、毎日の取り組みが「律」です。

御教えというものがあって、それを鑑として現代というものが理解できて、その現代に身を置く自分の影響を受けている実体が浮き彫りにされます。そこで、より良い方向へ進むために自らが自発的に課題を設定することができれば、素晴らしいことになります。

そして、課題に向けて取り組み始めた時に弱さが出ることがあります。集中力を欠いたり、継続できなかったり、事情に流されて責任回避したりします。その弱さを克服するために一般的に戒律というものはあります。しかし、戒律のみが前面に出てまいりますと、本末転倒になってしまうのです。守られているか守られていないのか、ということが優先されれば、これは本来の願いからは遠ざかってしまいます。

人間の弱さとは、「夜の時代」となって以来人間本来の心言行が変質したことにより生じております。時代の流れの影響を受けてのことなのです。そのために戒律を有り難かったりする宗教も多いのですが、戒律がなくとも身を修めることができ、ご神意を覚ることができる、ということが理想です。

因みにメシヤ教には戒律はありません。メシヤ様は『行があるとすれば、「下座行」と「浄霊の時に手の力を抜くこと」「時間を守ること」くらいだ』と仰られております。どこまでも人を救うために「行」というものがあり、人を救わせていただくことを通して、結果的に自分も幸せになるという教えです。

そして、本来弱さが出た時に力をくれるものが信仰なのです。正しい方向へ進む者に神様は力を授けなければならないからです。そこで方向が正しいかどうかを吟味することが、これまたお世話でもあるのです。

メシヤ講座で時代性について度々触れてきたのは、現代に生きる中でお一人お一人が人間として備えてきたもの、あるいは失ってきたものを明らかにするための一助となることを願ってのことです。そのことを受けて、自発的に課題を設定して自分づくりに努めていただきたいのです。今後より一層問題意識をもって研鑽に励んでいただければ幸いです。

具体的な問題解決法は次回から

研鑽すべきことはたくさんあります。次回から問題解決法のための具体的あり方について触れてゆきたい、と考えております。

(昨今、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団の信者さんからの質問が増え、またメシヤ講座の場でも話題に上る機会が増えてまいりましたので、今回から「景仰」の内容について、改めて掲載します。参考になれば幸甚です。)

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<メール交換・パ-ト2 プラス体験記>
メシヤ教にふれて(下)

私のメシヤ教への転向にあたり、私は以前の教団でお世話させていただいている一人ひとりの方にお別れと事情をありのまま伝えました。そして「私は誰もお誘いしません。私の決断に左右されないで、皆さんはご自分の判断に責任を持って歩く道を決めてください」と伝えました。その結果、共に歩くことになった方々が多少おられます。メシヤ教にふれて、お世話させていただいている皆さんから感じる変化をお伝えしたいと思います。

最初に感じたのは笑顔が多くなったことでしょうか。そういえば、以前の皆さんは叱られて暗い顔をしている時が多かったですね。もちろん、ご自身が不幸の源である霊の曇りを発生させる悪い習慣と向き合う時は、どなたも苦しいものですが、それ以外の点で、小乗的、戒律的な取り組みは本当ではなく、天国的な取り組みの大切さをメシヤ様は示されています。以前の教団では、良し悪しは別にして戒律的な面が少なくない信仰生活ではありました。

心からの笑顔を取り戻した皆さんを見て、さぞ、自立に向けた取り組みが進むことだろう、と思うところですが、これが不思議なものでそうではありません。以前の教団では習慣になっていたはずの日常での取り組みなどは、かえっておろそかになったという感想も持ちました。以前に比べて精神的な負担が大きく軽減されて気持ちよく自主的な取り組みのできる環境になったのに、なぜ、逆の結果になるのか、人間というものは中々不思議です。意味もわからず嫌々に取り組んでいるものは中々定着しない、ということが言えるのでしょう。

これは私自身にも同じことが言えますが、自由になってしまうと、自分の中に心から覚り身に付いているもの、それだけが目の前に突きつけられる感じです。身に付いているものだけしか行動に表わせないのです。言わば裸の自分と向き合うことになるので、基本ができていないと自由というのは活かしきれない、こんな感想を持ちました。

それだけに、自由と戒律的な取り組みとでは、取り組む人の段階によって向き不向きがあると思います。メシヤ教に転向してから、数名のお導きをさせていただいておりますが、基礎のない方というのは神様を自分本位に解釈する危険な一面も見え隠れしています。基礎形成の期間はただ自由というのではなく、相手の状況に応じて必要があれば積極的に関わり、伴走するように進んでいくことも大切でしょう。ある段階を超えた方については、自立した信仰生活を確立できるようなお世話に変えていく、もちろん一概には言えませんが、もう一つこんな感想も持つことができました。

そうして、皆さんに対しては問題点がわかればアドバイスの仕方はあります。全ては自分自身のための取り組みが、いつの間にか言われて嫌々やる取り組みになってしまっていることがあります。教団のためでもなく、誰かのためでもなく、結果的に自分自身の人生を豊かにするための取り組みであることを、もう一度認識していただくことから始めました。

幸せというものは霊籍の向上にによって許される、と教えられています。その霊籍は日常の心言行で常に上昇したり下降したりしているそうですから、全ての基本である御教えの拝読を通して、御教えを日常生活で時所位に応じてどのように役立てていくのか、つまり心言行で曇りを発生させない「対自分」への取り組みと、積徳という「対社会」への取り組みを、勉強会という形式で共に検討するようにしました。取り組みの根拠として御教え「岡田茂吉全集」を手にできたことは大きいかと思います。浄霊の原典と申しても良いでしょうから、それを元に、一人ひとりの環境において今は何が最適な取り組みなのかを検討し、それぞれが日常生活の中で実行していく、こんな取り組みを始めました。

もちろん色々な段階の方がおられますし、抱えた悩みや苦しみも人それぞれですから、一度に皆さんが幸せいっぱいの充実した暮らし、というわけにはいきません。どなたも大変多用な中に暮らしていますが、そんな中でも確実に自分自身の成長を感じながら、取り組みの意義を感じながら、精神の充実した暮らしを始めることができる方が増えてきました。

取り組みを始めて約4ヶ月、この間、3名の方が御神体ご奉斎を許されました。これまで以上に、神中心、自然中心の調和のとれた生活がこの方達の人生に備わっていくことを思い、喜びも一入です。ご奉斎を許されてからの毎朝の寝起きでは、「疲れの抜けやすさが違う」というお話を3名全員から伺っております。私も御神前で休ませていただくことがありますが、皆さんと同様のことを感じます。御神体からの光は目には見えませんが、大変良い体験をさせていただきました。

以前の教団では、相手の段階、状況に合った適切なお世話を受けることが難しく、トップの方針と違う取り組みをする場合、精神的に苦しい立場に立たされてしまうことがママありましたので、メシヤ様の御教えに沿った運営にふれることができたお蔭で、皆さんは自立した信仰の確立に大きく前進することができ、私は大きな気付きをいくつも得ることができました。実にありがたいことと感謝しております。今ある環境の中で後悔しない取り組みを心がけ、これからも過ごしていきたいと思います。(終わり)