メシヤ講座・特選集no.37(平成16年2月分)

<立春祭・挨拶>
仕組を理解するには霊性の向上が不可欠
メシヤ教代表  楳木和麿

「節分」は神様を天の岩戸へ押し込めた記念日

昨日、節分祭を厳かに斎行し、本日再び皆様に参列していただき立春祭を執り行わせていただきました。霊的に大きな意味をもつ祭典を恙無く執り行わせていただくことが許され、心から感謝申し上げます。

さて現代人は大きな勘違いをさせられて生きていることは何時も申し上げていることですが、中でも「節分の豆撒き」や「注連縄(しめなわ)」などは最たるものです。

太古の昔、厳格な神様を天の岩戸へ押し込め、その前に煎った豆を播いて「この豆から芽が出てくるまで岩戸を開かない!」と唱えた。それが節分の豆撒きの起源だとされています。ですから煎った豆を播くということは、「今年も岩戸を開かない!」と唱えていることと同じなのです。(メシヤ講座・特選集№14メシヤ講座・特選集№24参照)

また注連縄(しめなわ)は、神様を押し込めた岩戸の前に張ったものです。ですから、尊いところという意味もありますが、やはり‘押し込めたところ’という意味合いが強い。その本来の意味からすると「今年も厳格な神様は閉じ込めたままに…」という呪文というように捉えた方が自然です。

こうした内容を知ると、ゾッとしてしまいます。大きな勘違いをさせられているからです。そのことに気付いていくように、お導きさせていただくことがメシヤ教の使命の一つですね。

物質文明の進展を促すために「閉じ込め」はあった

それでは何故、太古の昔にそのようなことがあり、現代まで形を変えて受け継がれてきたのでしょうか?

それは、この地上に理想世界を樹立する前提として、まず物質文明の発展を進めるためだと教えられています。そうすることにより、人々は天邪鬼(あまのじゃく)となり、利己愛が強くなり、そして戦争を重ねます。戦争が繰り返されれば尊い人命を奪う目的で軍事技術が磨かれますが、それが日用品に応用されると人間生活は便利さを増します。

今、日本中のどこからどこへでも日帰りができるのは航空機があるからです。皮肉なことですが、これもそうした恩恵を受けているということです。また車好きの人なら、ポルシェに乗りたいと願う人が多いと思いますが、911カレラに搭載された空冷水平対向エンジンは軍部からの要望で研究が重ねられたということです。

また、RV車の草分け的存在であるベンツのゲレンデヴァ-ゲンは軍用モデルがル-ツであることは広く知られています。因みに、ベンツのスリ-・ポインテッド・スタ-は陸、海、空の3部門を制覇するという強い意思を形にしたものだということです。

ここまでの約1000kmを乗用車で移動するにはカ-ナビを頼りにしますが、そこで威力を発揮するものがGPSです。これも軍事目的で開発が進んだものです。BS放送も同じことが言えます。私達は、戦争で繰り返される悲劇を嘆く一方で、生活上の便利さを享受しております。この相矛盾する両者の狭間の中で生きているということが現実です。

そして、人類を滅亡させかねない兵器が開発されました。また、ジュネテック工学は神の領域に踏み込みつつあります。いよいよ物質偏重の価値観に終止符を打ち、ここで精神文明を進展させなければならない時期が到来したのです。それがメシヤ教が開教された理由ですし、宣教の主眼です。

立春祭を期して弥増す神威は‘昼のリズム’を生む

一人でも多くの人が節分の本来の意味を理解し、節分祭において人類の罪をお詫びすることにより、翌日の立春祭を期して神様の揮われる神威は弥増します。

そして、立春祭を期して弥増す神威は‘昼のリズム’を生みます。左進右退の神律です。

昭和25年(1950年)2月4日にメシヤ教を開教(信仰読本12ペ-ジ参照)して、3月20日に開教の意義を再度徹底するために『何故メシヤ教となった乎』という教えを垂れています。

『何故メシヤ教となった乎』より

『仏教は月であり、月は夜の光であるから、観世音菩薩は御仏である以上、夜の月の御働きであるから、絶対力は揮い得なかったのは時期の関係で止むを得なかったのである。従って、愈々昼の世界になる以上、仏の御働きは茲(ここ)に解消し、神の御働きとならせられるのである。』

『観世音菩薩が神の御働きとなるとすればどういう変わり方になるかは、信仰者として最も関心事であろう。それは度々(たびたび)言う如く善悪無差別的救いが無差別ではなくなり、善悪をはっきり立て分けられるのである。という事は善の御守護は益々厚くなり、悪には今までとは違い愈々厳しく裁かれ給うのである。この点を深く肝に銘じて進むべきである。それには何よりも出来るだけ御神書(御教え)を拝読する事である。』

この教えを発したにもかかわらず、弟子達の権力抗争が闇で繰り広げられ5月に『教祖の御法難』が巻き起こるのです。まさに善悪立て分けを先延ばししようとする闇の働きに煽動されたのです。

さらにそれからは、御法難を楯に教えの改竄が重ねられます。それでも教祖は本来の御神業推進を目指し、昭和29年(1954年)6月15日メシヤ降誕仮祝典を執り行いますが、御法難の後遺症により翌30年2月10日御昇天されてしまうのです。

私は節分祭、立春祭を大きな節目と心得ていることは勿論ですが、6月15日の地上天国祭をメシヤ降誕本祝典となるような想念で祭事を重ねてまいりました。

それはまた、『立春祭を期して弥増す神威は6月15日の御祭りを期して現界に移写され始める』という意義があるからでもあります。移写される上で明確なのは浄化力です。善悪の立て分けのための浄化力とも言えます。そして、善を救済する浄霊力です。

そこで、立春祭の慶き日に改めて教祖を「メシヤ様」と尊称することを徹底するようにお願い致します。新しい信者さん方は初めから「メシヤ様」なのですが、先輩の方々は「明主様」という尊称に慣れ親しんでまいりました。改めて本日ここに徹底をお願い致します。やはり想念とそれに伴う言霊が大切ですのでどうぞ宜しくお願い致します。

‘夜の時代’の精神のクセを取り除くことが大切

私達は、本日を期して一層御教え拝読に取り組み、浄霊力を強化することに努めて行きたいものです。

また、‘夜の時代’の精神のクセを取り除く作業も重ねなければなりません。何時も言うように、私達は絶えず厳格な神様を押し込めてからの‘夜の時代’の価値観の影響を受けています。そしてさらに、現代社会は経済至上主義、マスメディア、民主主義などにより私達の視野を狭窄症状に追い込んでいます。

昨今、マイ・モラルなどと言われていることも霊性の高さが伴っていれば問題ないのですが、先程の話のように必ずしもそうではありません。人の思い上がりが加速度を増しているように映ります。

国際社会の中では、イラク戦争と復興という事が耳目を集めブッシュ政権への批判が強くなっています。ブッシュ大統領を支えるネオコンについては先に触れましたが、キリスト教右派勢力も注目されています。大統領本人が個人的にその信仰によって難局を乗り越えた経緯もあるようです。

その点では、最近打ち出している政策の中には注目すべきものもあるのです。妊娠中絶に厳しい政策、同姓同士の結婚を認めない政策等々です。これなどは評価に値するのです。前者は当然な事ですが、後者は論争に加わる事を控えたい面があります。

しかしこれは、「剣客商売」で小兵衛が「表に出ると病気じゃが、誰にでも・・・」と語る内容の方がずっと説得力があるのです。副守護神系の趣向なので、表に出してはいけない楽しみなのです。それを出そうとするから身も蓋もないし、人生の妙味が薄れてしまうのです。

話が横道に反れそうですが、何にしても対立構造で対応していくと巧く行きません。人間というものの成り立ちを十分知った上で対処していかねばならないのです。そういう意味ではキリスト教の限界を露呈している事例です。

アフガンやイラクでの軍事行動を「新秩序づくり」などと持て囃していますが、武力で実現しようとするところから新秩序は生まれません。本来のあり方は、徳によって治めるということです。

そのためには真理を知らねばなりません。そういう意味からでも、キリスト教的価値観では限界が生じるのです。今こそ「メシヤの教え」が必要なのです。

*     *     *     *

<質疑応答>

人間が全ての罪を、というのは矛盾する・・・?

Q.  物質文明を先に進展させるためとは言え、神様を押し込めるという蛮行を行ない、罪穢れを負い、そのことを将来的にお詫びしなくてはならないというのは割に合わないと思います。結局精神文明を進展させるために動くのも人間です。何か矛盾するように思うのですが…。

A.  そうですね、「そんなのは可笑しいよ」と言ってやらないということも、「そんな大事なことならやらせていただこう」と、いうこともあるでしょう。実は、『それが人間に与えられた最大の自由なのだ』と教えられています。究極的な表現ですが、天国を作るのも地獄を作るのも人間の自由だということです。

これは神の仕組ということに関わりますが、『奥の奥のまた奥のそのまた奥・・・』という言い方をされているほど深遠なのです。現代人は‘瞬時に’という言葉が象徴するように即答を求めますが、人間社会には奥行きがあります。そしてこの世の中には不思議な事がたくさんあります。その不思議さが魅力なのです。

そして不思議さを実感したり、不可解だったことが鮮やかに氷解した時の喜びはこの上ないものです。そうしたことが解るためには、霊性の向上を図らねばなりません。

新年祭で‘課題の設定’をするようにお願いした背景にはそうしたことがあります。一歩一歩向上を目指したいと願います。

メシヤ様の尊称―「もっと想念を高くしてください」

Q.  「メシヤ様」と尊称することについてお伺いします。時期が到来したということでしょうか?

A.  昨年「神の年」を迎え、本年から種々具体化していかねばなりませんが、まずもって最も大切なことから徹底していこうというものです。

教祖は、昭和10年の立教間もない時期に『観音講座』を行い、第三講座で「救世主八大資格」という教えを垂れています。そして、昭和26年(1951年)9月『考えてみると明主の言霊は、メシヤと五十歩、百歩だから、或いはメシヤの名前になるかもしれないとも想っている。』と、名称について述べられています。

このことから時期の到来を痛切に待たれていたのだと拝察されます。教祖のご性格上御自ら威厳を示すようなことはなさいません。高弟と言われた先達の誰かが、もっと早くになすべきことであったのです。遅過ぎる位なのです。

私が5年前にいただいたご啓示の内容はそのことに基づくものでした。そこで、今回徹底したのは、先輩の信者さん方に「もっと想念を高くしてください」とお願いしている次第なのです。