メシヤ講座・特選集no.31(平成15年8月分)

<体験記>
「氏の変更」「子育て」「勤務先の倒産」・・・
数々の御守護と共に 日々学びの連続

浜北市 児玉よし子

7月分の「メシヤ講座・特選集」に、‘永遠の栄え’というご指導がありました。

「神様の御守護を信じて、ひたすらに学びを重ね努力を重ねる、つまり自分自身を磨くことに努めていくことが大切です。それが真の問題解決ということになり、『永遠の栄え』をお許しいただくということになります。」

私は、数え切れない御守護をいただくたびに喜び、感謝の気持ちでいっぱいになりましたが、時がたつにつれて感謝の気持ちが少しずつ薄れていることに、今改めて気付き深く反省しております。その時々の出来事、悩みにご指導をいただき、無事解決し、今の自分がありますことに再び感謝の念が湧いてまいりました。

私は30年近く前、5歳の娘を連れて実家に戻り、3年後に離婚しました。その時娘が名字を変えたくないということで旧姓に戻しませんでした。ところが、娘が良縁に恵まれ嫁いでしまった後、私一人が縁のない名字を使うことになってしまいました。

楳木先生は「本来ならば、離婚した時点で旧姓に戻すべきでしたが、今からでもできます」とお話くださり、裁判所へ出向くことを教えてくださいました。私は、家庭裁判所で「氏の変更」を申請し、何度か足を運び、お蔭様で順調に変更することができました。

「子育て」を通して自己教育の大切さに気付く

娘に子供を授かることができた時も、大きな御守護をいただきました。娘はその頃仕事をしておりましたので、疲れから何度か体調を崩すこともありました。私は、元気な子を無事に出産することが許されますようにご祈願し、浄霊を取り次ぎました。

お蔭様で、無事に、元気な男の子を出産致しました。母子共に元気で、喜びでいっぱいでした。そして、産後も順調で、母乳もいっぱい出て、健康な成長を遂げております。この間、娘の産後の生活、孫への接し方や育て方を数々先生に教えていただきましたが、それは、私自身への教育でもありました。

と言いますのも、30年前娘は最後まで父親と一緒に住むことを望んでおりましたので、私と二人での生活は淋しく心細かったでしょう。私は、娘が健康で、社会に役立つ人間になってほしいと願って躾をしたつもりでしたが、実際はかわいそうだという気持ちの方が先に立ち十分なことはできませんでした。

常におとなしく、まじめに学校の勉強をし、スポ-ツに励んでくれれば良い。また、私ができなかった、いろいろなお稽古事に通っておくことが良いと思って、させました。大人の都合を子供に押し付けていたことが多く、子供にとって本当に必要な躾が不足していました。

今、孫に起きてくる諸問題をメシヤ講座で質問し、教えていただくことを通して、娘にできなかった躾に気付かされています。そしてそれは、自分自身への躾でもあります。自己教育への手がかりです。孫の成長と共に、改めて躾について学ばせてもらっています。

勤務先の倒産があっても、‘安心立命’の生活

昨年、私の勤務していた会社が倒産しました。一人暮らしならばすぐにでも生活に困るところでしたが、孫が生まれてから娘夫婦が家を建て同居してくれていたので、何の不安も感じることはありませんでした。國立さんの家を建てた業者に依頼し、娘夫婦や私の要望を満たしたものであり、とてもありがたいことです。

今年の1月に、若くもない私にも仕事が見つかり、毎日元気に通勤しております。以前の健康診断では、心臓肥大と不整脈が指摘されたのですが、今年7月の診断では異常ありませんでした。いつも浄霊をいただいているお蔭だと思い、大変嬉しく思います。

しかしこれも浄霊の仕方をきちんと教えていただいたからこそです。楳木先生にお会いするまでは、儀式的な浄霊で終わっていました。初めて先生にお会いした折、浄霊のあり方、言葉の発し方、御教え拝読の重要性についてご指導くださいました。

入信して日の浅い当時の私は、その意味するところを理解してはいませんでした。しかしその後、どうして良いか分からないことに方向性を見出し、不可能と思っていたことが可能になるなど数々の御守護をいただく中で、少しずつ理解を深めることができつつあります。

毎月國立さんご一家のお蔭で月次祭が厳かに執り行われますが、祭典に参列し、メシヤ講座での勉強は大変楽しみです。‘ものを識る’ことの喜びがあり、感動の連続でもあります。生活の軌道修正もでき、大きな見守りの中にあることが実感できます。また何か困ったことがある場合、いつでも電話で貴重なお時間をいただき、納得できるまでご指導をいただいております。

叶うことの難しいと思っていた安住の地に、御神体御奉斎を許され、朝夕の参拝ができ穏やかな気持ちで毎日を過ごしております。これが‘安心立命’の生活であると感謝しております。

拙い内容の報告でしたが、私は一人でも多くの人に浄霊力を身に付けていただき、メシヤ教の教えを生活に取り入れていただき、更なる幸福者になっていただきたいと願っています。ありがとうございました。

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<お話>

青年布教師時代

メシヤ教代表 楳木和麿

教育係

私が以前帰属していた教団で機関紙の編集部に従事したお話を前回致しましたが、その期間を終えて初めて現場で布教師として従事したのは25歳からです。最初の赴任地は高知県でした。ここで私は貴重な体験を重ねました。

当初は高知市内の布教所(布教施設の呼称)付でした。まあ、責任者の補佐役みたいなものでした。この責任者は大変人間味のある方でしたし、ユニ-クな方でした。実家が神主をしているとかで、その方面に詳しく種々得るものがありました。

例えば他宗教のグッズ類の取り扱い方などですね。また、軸物の仕舞い方、風帯の扱い方、一文字と一文字の間を汚さないための措置、紐のかけ方等々ですね。そうしたものはその方から学びました。

特に研修等で教えてもらった訳ではないのです。不思議なことに、依頼のある家庭に訪問する折りには必ず同行することになるのです。責任者が酒を飲んでいて車を運転できないから、ということがほとんどの理由でした(笑い)。私はその時、責任者の所作をじっと見ていました。そして、それを忘れないで覚えたのです。

ところが、次の任地が決まる少し前に、神様から『足らないところを教える教育係であった』と知らされました。私は驚きました。

これは皆さんにとっても大変大切なことです。特に若い方々は参考にしていただきたいと思います。家庭慰霊祭の折りに拝読していただいている『人間とは』という教えに、『神は一人一人それぞれの使命を与え、特徴を持たせ、生き変わり、死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。』とあります。

人間というものは生き変わり死に変わり教育されている、ということです。もちろん反面教師的な場合もあるでしょう。しかし関わる全ての人が、理想目的に向かうための自分に必要があって出会っていると受け止めることができましたら、人生観は随分と変わるのではないでしょうか。自分には、その時々に必要な教育係がいる、と思えたらなんと心強いことでしょう。なんと素晴らしい人生でしょう。

また、そのように受け止めることができたならば、脳のためにも大変良いようです。「自己啓発のための基本百科」(日本能率協会編)の中に、

「人間の脳の中には、フィルタ-の作用がある。たとえば、自分が聴きたくないような音や見たくない光景を聞いたり見たりしても、それを意識的に排除しようとする働きがある。一方で、あるものに全神経を集中すると、普段では聴こえぬものまで聴こえてくることもある。

それゆえ、自分の周囲で起こる現象、たとえば学校の講義で、この講義は嫌いだと決めてしまうと、その講義の知識は身につかなくなってしまう。自分から脳の中のゲ-トを閉めてしまっているのだ。」

「ゲ-トはフルに全開、何でもいらっしゃいというかたちに脳を維持すると、外から入ってきたある情報と潜在的に埋もれている情報とがドッキングして、素晴らしい発想が浮かんでくる。」

という内容があります。

私は神様から知らされた以後、教育係と思える人が次々と現れ、今日まで様々な学びを積み重ねました。どうか、人には誰にでも教育係が時所位に応じて付けられるということを認識していただきたいのです。それを拒んだりすれば、もったいない話です。

ついでの話になりますが、拒まないために、上手な人間関係を築く訓練をしておかねばならない訳です。つまり、小学生時代はできるだけ多くの子供たちと遊ぶことが大切です。遊ばないで勉強していたら、心配する位の親でいたいですね。

霊主体従の法則

半年が過ぎてから、高知市に隣接する吾川郡から高岡郡にまたがる地域に新たな布教所を設立する話が持ち上がり、その責任者に就任することになりました。25歳という若さなので、当地在住信者の代表から不安視する声がむくむくと湧いてきました。設立場所の設定から、お世話組織の組み立てに至るまで推進しなくてはならないのですから、不安は当然のことだったでしょう。

数々の奇蹟をいただき、心が打ち解けてきて一体感のある布教所づくりができました。その変化の過程の出来事は、大変興味をそそられると思いますが、別の機会に話すとして、ここでは私自身が教えに対する確信の深化を図られたことについて触れておきたいと思います。

中でも驚かされたのは、吾川郡吾北村のある家庭に案内されて訪問した時の出来事です。挨拶を済ませて、おしぼりが出されたので眼鏡を外して顔を拭こうとした時のことです。‘あっ!’と叫ぶのです。そして相手のご婦人が、しげしげと初対面の私の顔を覗き込むのです。

‘間違いない!’と得心したかのように「あの節は救っていただき、ありがとうございました。」と述べるのです。案内した方も私も意味がわからずに、豆鉄砲をくらったようになっていましたら、説明をしてくれたのです。それによりますと、数年前に病気で生きるか死ぬかという時に枕元に見知らぬ男性が立ち浄霊を取り次いでくれて、それで全快したと言うのです。

誰だか解らないままズ-ッと疑問として抱えてきたそうです。その人物こそ私の顔に間違いないと言うのです。この時、私は霊主体従の教えを確信しました。現界で起こることは、霊界で先に起きて現界に移写されるということです。それを文言ではなくて、直に教えられたのです。

先月救いの連鎖という話をしましたが、これなどはその一例です。精一杯御神業に取り組んでいれば、霊線を通じて縁のある人に光が及んでいるということです。共時性です。意識せずとも因縁の人は共に生き共に進んでいるのです。

ですから、『因縁の人が因縁の人を救う』という教えの通りです。そうであるからこそ、‘今日ただ今’という時を精一杯生きていく意義があるのです。そして精一杯生きていれば、次に救われる人に連なるということです。

献金奉仕の奇蹟・ゴルフ練習場の建設

昭和57年の教祖御生誕百年祭に向けてMOA美術館建設が進められていた時のことです。私は教団機関紙の編集業務で美術館建設の担当をしていたこともあり、その意義については十二分に認識しておりました。

国宝3点、重要文化財53点、重要美術品47点(当時)をはじめとする三千数百点の所蔵美術品は高く評価されていますが、その蒐集に当たっては戦後の海外流失を防ぐ意味で大きく貢献したことは周知の通りです。美術館は、こうした東洋美術の粋と評されている美術品を広く公開する場であると共に、美術品を保存する場でもあります。

ですから、今大きく騒がれている東海沖地震に対する耐震構造や設備を万全にする必要があります。また、国宝の「紅白梅図屏風(尾形光琳筆)」や手鑑「翰墨城」をはじめとする書画の保存は空調が命です。様々な課題が山積する中膨大な予算が組まれ、初期の計画では銀行から借入し長期計画で返済するというものでした。

しかし、百年祭の記念行事としてオ-プンするからには借金を抱えたままで臨んでは申し訳ないという機運が広がり、昭和57年度中に完済しようという事業計画となりました。「何としてでもやり遂げよう」という意欲がありました。

しかし私は若く、意義の説明を重ねましたが、「献金奉仕によって徳を積むことができる」という確信に満ちた取り組みには到りませんでした。

そんな時二つの大きな御守護を目の当たりにすることで、私の心は変化して行きました。

一人の方は、高岡郡佐川町で従業員50名を抱える会社を経営する方でした。自然な地形を生かしたゴルフ練習場を建設したいという夢を抱いていましたが、いざ候補地が見つかっても多くの地権者が全て了解してくれる訳でもありません。半ば諦めていた頃、父親が老衰で他界されました。そしてその時、遺産の三分の一を献金奉仕されたのです。

すると瞬く間に、新たな候補地が見つかり22名の地権者が賛同してくれたのです。私は鳥肌が立つ思いでした。買収を終えると、私が祭主となり地鎮祭、そして竣工祭を執り行い、賑々しくオ-プンを迎えました。

献金奉仕の奇蹟・48歳の初産

次の方は、夫53歳、妻48歳の高岡郡日高村に在住する夫婦です。子供に恵まれていませんでした。この方は、懸案だった土地売却が実現できた時に売却額の三分の一を献金奉仕されました。

その時に、なんと妊娠されたのです。驚きました。高齢出産で、しかも初産ということで心配もありましたが、浄霊のお蔭で全て順調に十月十日を迎えました。そして玉のような女の子を出産されました。その喜びようは大変なものでした。

この二つの出来事は代表例ですが、徳を積むことの意義を強く認識することができました。若輩ですと、お金に関する話題は何かとし辛いものですが、そうしたことは一切なくなりました。

相手が幸せになるのですから、自信をもって神様に捧げる意義を説くことができるようになりました。そして、誠のある方々がそれに応えてくださいました。

教団紛争時に一糸乱れぬ支え

こうしたひたむきな取り組みは、もちろん私だけでなく全国で展開されました。ところが、その結果が新たな問題の火種の一つになってしまったのです。

宗教に身を置くものであっても、時代の風潮に汚染されていくことがあります。日本は物質豊かな社会となって、日本人は何時しか自己の存在様式として「もつ」ことを自己の価値とすること、自己の存在の証とすることに慣れてしまいました。

宗教に身を置く人も何時しか、人間の価値をその人の霊性の高さで見るのではなく、肩書きや地位、知識、財力、といった社会的属性によって量ろうとしていったのです。当然、信仰は希薄となり、理性は操作的な知性へと変質し、利己心に翻弄されてしまいました。

美術館建設費用を銀行へ完済した後の余剰金(約200億円)をめぐる主導権争いが底流で起こり、昭和58年暮れから顕在化しました。情けない話ですが、教団紛争が起こったのです。私は信仰の本質を護持しようとするグル-プを支持し、全国的に活動しました。

その取り組みを可能としたのは、25歳から共に活動してくれた信者さん方の一糸乱れぬ支えがあったからです。また、高知県下の信徒を取りまとめる準備委員会もその布教所で行ないました。大変ありがたい支えでした。

しかし、そのグル-プも10年を越える歳月を経て変質してしまったため、私は独自の活動をすることになったのです。今回は青年期の話ですので、これ位にしておきましょう。