メシヤ講座no.112浜松(平成22年5月)

<今月の御教え>

「明主様(メシヤ様)と谷川徹三氏との御対談(一)」

【メシヤ講座 浜松支部】

楳木代表

○○君、今から拝読する中にとても大切な事が書かれています。よく聞いてそれを見つけてみてね。

 

メシヤ講座no.111の御対談を拝読して

楳木代表

この御対談は三回にわたって掲載してゆきますので、二回目、三回目と楽しみにしていただきたいと思います。

さあ○○君、一番大切な事は何だったかわかったかい?

一番後ろのページで小西という方が話しているでしょ。

「谷川楳木代表が美術館で一番長く時間を取って見られたのは仏像です。牛が中にはいっているのがありますが、牛を外に出して見られ、写真を撮ってくれとか言われ、これが一番長くて三時間でした。」と、仏像の中の牛を出して写真を撮るのに三時間もかけたのです。ふつうは開けてもらって出して、カシャと撮るともうそれで満足する場合が多い。それを三時間もかけて撮り続けて、これはやっぱり美術の専門家として極めていくためにやるということです。

○○君もゲームをやるときには三時間やるという事があるかもしれないけれど。

参加者

僕、ゲーム持ってないよ。

楳木代表

ないか、それは結構。ゲームは面白いという事に引き込まれてやるのです。しかし、こちらで写真撮影をしたというのはその本当のいいところを引き出そうとしてずーっとやったという事だね。しかもこの一緒に居た人たちは「私達は足が痛くなって、三人共逃げ出してしまいました。」というのだから。一緒に来た人たちも新聞社の人達でかなりの専門家だけれども、その人たちが音

(ね)を上げてしまうくらい一つの事に集中するという、これが素晴らしい一面だということが読んでゆくとわかります。

だから○○君もそろそろこれから高学年に入ってきて今度中学生になっていく時に、こういう風に生きている人たちがいるのだという事に少しずつ興味を持っていくと良いと思うよ。

今まではお母さんに「ああしなさい。」とか「こうしなさい。」とか「駄目じゃないの。」とか言われながら来たのだけれども、これからは自分でそういう自分が一番この事について勉強してみようとか興味を持ってやってみようという事が少しずつ見え始める時だから。

だからそういう人達がいるのだという事をまず知っておくと良いです。

こうやって読んでね。それを是非心に留めておいてもらいたいと思います。今ね、○○君、五月でしょ。新学期が始まって、五年生になって大体一ヶ月経ったでしょ。そうすると今度はね、新たに社会人となった人たちがいるでしょ。大学を出て会社に入った人たちが。

この人たちの研修で今一番困る事は何か知っている? 研修する側の人たちが困っている事は?

要するに、叱られた事のない子供達ばかりが入社しているから。

○○君は幸いいつも叱られているでしょ。それ幸せなのです。 全然叱られたことのない人たちが会社に入って上司から「何やっているんだ!馬鹿じゃないか!」とか叱られたら動けなくなってしまうのです。叱られた事がないから。これが一番会社としては困るのです。叱られる研修

を受けている人たちが今、いっぱい居るのです。

参加者

この前、テレビのニュースの中でそのような事をやっているのを見ました。「社会人になってこんなに叱られるとは思わなかった。」とか新入社員が答えているのを。

楳木代表

見た?小さいときから叱られたことのない人が社会人になってから叱られると人格を全部否定されたと受け取ってしまうのです。叱る方は仕事上のミスについて叱っているのです。一つの事について。しかし叱られた経験のない子は全部を叱られたように錯覚してしまう。

だから子供のときから叱られた子は幸せなのだね。だから叱られた事のない子は気の毒で仕方がないね。友達の中で叱られたことの無いという子がいたら、「君、可哀想だね。」と言って話してあげないといけない。(笑)

いやこれね、こうやって話すと笑い事だけれども深刻な問題なのです。会社では。少しきつく叱ると辞めていく子もいるくらいですから。まあ親が会社に電話してくる事は滅多にないとは思うけれども。「おたくの会社、ちょっと叱りすぎではないですか?」とか。でもね、ちょっと恐ろしいです。そういうことがあるので、今日はそういうことも心に留めておいて。

それでは子供についての話は終ります。

それから次に2ページの宗教と芸術について小坂氏が出てきますが、この小坂さんがメシヤ様のことを谷川先生がどのように仰っていたかということを述べています。

「この事業を宗教団体がやっているという事は、新しい時代現象だ」と。この昭和28年当時、メシヤ様のことを新しい時代現象だと捉えて、そして「今までの日本の歴史を通じて劃期的(かっきてき)な事だ。」と言って評価しておられます。しかも「これに対して国家的に理解を深めなければならない。」と。このようにメシヤ様のことを見ていて下さる人がこの当時大勢いらしたということですね。

これに対してメシヤ様『聖徳太子は仏教を日本にひろめた元祖のようなものですが、仏教芸術を一番の方法として仏教をひろめたのです。」というふうに仰っているのだけれども、今度メシヤ様は世界的に聖徳太子と同じことをやっていこうという事をここで打ち出していますので、本来「世界救世(メシヤ)教」が開教されたときには世界的にこういうことをずっと進めてきたのです。

とりわけ日本の美的感覚の深さとかということも大いに世界に認識させたいということがメシヤ様の御心の中にはあったのだということを捉えておくといいと思います。

そしてその次に『いずれ京都に仏教美術専門の美術館を造ろうと思っています。』と仰っています。これはまだ実現されておりません。メシヤ様が御昇天されてもう55年経っているのだけれども、まだ京都には美術館ができていませんから、「世界救世(メシヤ)教」というものが復興できたときに真っ先に取り組むべき事は京都の美術館を造ることなのだ、というように皆さん手ぐすねを引いて待っていてください。

しかもメシヤ様は『それを進めていくために一番苦しむのは金です。苦しみと楽しみと両方味わっています。』ということですから、メシヤ様ですら両方味わっている訳だから、我々も当然味わうのだというふうにして辛抱強く生活を営んでいただきたいと思います。

さ、それともう一つはここで外人、外人と出てくるけどね、外国人というように現代では言うべきですが、原文のまま載せてあります。また、夫婦で美術品を見るのは非常に結構だという事ですから、この時代からそういうことを目指していこうと文化人たちはみんな思い始めたのだということを、こういうところから垣間見ておくと時代の流れを見つめる事が出来るのではないかと思います。

という事を最初にご説明して質疑応答に入りたいと思います。

参加者

数字というのはすごいですね。

楳木代表

うん。しかも五六七大教会は五六七の大教会だから。そこの御玉串が567,000円になるというのは不思議なことだね。

(子供達が騒いでいるのをご覧になって)

うるさいね。何だね?

参加者

(子供が)支部の玄関の書は?

楳木代表

メシヤ様が書かれたものの印刷です。古いものですから、相当やけています。だから私の家にもこの御額はかかっていないね。こちらに持ってきてしまったから。やはり大きい行事をここでやってもらうから。本部代わりにみんな集って貰うから、それで一つのあれをここにかけさせて貰っています。

参加者

表装は?

楳木代表

これは自分です。紙だけでいつも御下付してもらうのです。表装してという訳ではないからね。

 

『世界救世(メシヤ)教 教義』

参加者

子供に一番最初、『世界救世(メシヤ)教 教義』を覚えさせたか?という答えを宿題でいただきました。ヒントは過去のメシヤ講座にあるとおっしゃっていましたが、昨年のメシヤ講座で「『世界救世(メシヤ)教 教義』はすべての起点である」、というところで合っていますか?

楳木代表

合ってない。もっと古い。子供に読ませたのだから。

子供に暗記をさせたのだから、あんなに難しい事では有りません。

去年のは難しかったでしょう。○○さんと△△さんは前の教団の布教所で聞いているはずなのだけど‥。

参加者

そんなに古いですか?

楳木代表

メシヤ講座も古いよ。だけど前の教団の時にも話しているから。子供が覚えたときに子供に何故これを覚えるかといったときの説明をするのはね。

参加者

前の教団でお子さんが覚えたという話を聞いた事がありますので、その時に教えていただいたとは思いますが、 内容が‥。

楳木代表

時期を覚えてしまったか。内容を覚えておかないと。

だから家庭にあれをおろしてみるとどうなるかという事です。家庭に置き換えると。

そうすると「抑々(そもそも)○○家の主(あるじ)、○○さんは」という事になります。

「この○○家を天国にするように結婚当初から一生懸命働いてきたのである。」と置き換える事ができます。「これに対して□□さんを○○さんの代理として家庭のことを動かしてきたのである。」と置き換える事ができます。

『一切万有は人間の為に造られたものである。』という事は「この家庭で稼いできたものとかそれから家庭に買ってきたものとかはすべて○○家を天国にするためにあるのだ。」というように置き換えていく事が出来ます。

『従って神はその時代々々に必要なる人間と、必要なる宗教を顕わし給い』ということだから、『必要なる人間』とは、子供が産まれてきた、そしてそれぞれに夫が出来、孫が出来た。」という事になります。そして「代々先祖から引き継いだ仏教とある時期からご縁があってメシヤ様につながっている。」というこれが『必要なる宗教』という事になります。で、さらに進んでいくと

『今や世界の情勢は混沌として帰趨を知らず』ということは「今の情勢はこんな状態なので、神は○○さんと□□さん夫婦に救いの力を与えてくれて」、

『人類救済』のまあ「近所の人たちをはじめとして御縁のある人々を救っていくためのそういうものを与えてくれた。」というように置き換えていく事が出来るのだということです。

だから暗記をしていく中で、この「世界救世(メシヤ)教 教義」というのは、自分自身の生活におろしていく事とそういう風に切り替えていく事が出来るのだと。

そうするとさら高まっていきます。自分達一人ひとりの生き方がより明確になっていくと。だから子供にまずは暗記させて、それをどのように考えるかというのを母親なり父親が考えていくことによって、よりこの信仰が生活の中にずーっとおろされてくるのです。

合点してくれたかな?

 

【参考 「メシヤ講座・特選集」 平成19年3月分】

<世界救世(メシヤ)教 教義>

「世界救世(メシヤ)教 教義」をトータルで理解していただいた後、自分に置き換えた場合にどのように読むことができるか、ということになる。

ここで例題を示すので、臨機応変に活用して考えてみていただきたい。

<抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである>

この部分を「そもそも我が家の先祖は」としたり「私の夫は」と置き換えてみると、「そもそも我が家の先祖は我が家を天国にするように・・・・・」とすることができる。また、「私の夫は結婚当初より我が家を天国にするように・・・・・」とすることもできる。

もちろん妻であっても、両親であっても、子供であっても、ご自分であっても結構である。

ここでは「私の夫は」として、各文章を当てはめてみると、まず「そもそも私の夫は、我が家を天国にするために私と結婚した当初から生活しつつあることを私は信ずるのである」と、することができる。

そのことを信じて結婚もしたのであるし、夫婦生活を営んできたのである。いかがだろうか。

<これに対して人間を神の代行者とされ給うと共に、 一切万有は人間の為に造られたものである>

そうすると、「これに対して私を夫の代行者とすると共に、家事一切は代行者たる私のために用意されたものである」と続く。

煩雑な家事も雑務も全て「我が家を天国にする」ためにこなすのである、と受け止めているのである。

<故に今日までの人類史はその為の準備工作に外ならない事を信ずるのである>

「故に、今日までの夫婦の道のりも、結局は天国を造るための準備工作であった、と信じている」

それまで幸福感に満たされていたか、あるいは苦労の連続であったか、いずれにせよ「我が家を天国にする」ための準備段階であったのである。そのように受け止めている。

<従って、神はその時代時代に必要なる人間と、必要なる宗教を顕(あら)わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである>

「従って、主人と共に子供を儲けて、共に人生の指針を得て生活してきた」

そうであるからこそ、「我が家を天国にする」ために、必要なる子供も許されたのである。しかもそれぞれの使命をいただいているので、時には親の言いなりにはならない場合もある、と考えることができるというような受け止め方になる。

また、ご近所の方も姑などもそれぞれ使命を持って存在している。皆役割を持って生活しているのである。

<後半 ― 信仰に出会った意義>

こうした受け止め方の上に後半を拝読すると、「我が家を天国にする」ためにメシヤ様とご縁をいただいた、という入信の意義がより明確になる。

つまり、まとめは「メシヤ様とご縁をいただくことで私が我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということになる。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識を共有したい。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そのために、第三講のテーマはメシヤ様である。さらに学びを深めたい。

お世話とは、メシヤ様の愛に包まれていただくことである。それを可能にする重要課題は、御教えを自らに置き換えて拝読する、という姿勢を共に持つことである。重ねて肝に銘じていただきたい。

 

参加者

努力します。

参加者

それは自分の中だけでなく、子供にも話をしてみた方が良いのですか?

楳木代表

そうそう。お母さんはこういうように受け止めているのだよ。まあ今までは受け止めていなかったけれど、今日話を聞いてこういうように受け止めたのだよと。だからあなた達も△△家を天国にするために一人ひとり役割があるのだよ。というように言い聞かせていけばね。

参加者

改めて素晴らしい文章ですね。

楳木代表

それを自覚するために今度覚えたのだよ。だからこの子が覚えなければこういう話はお母さんも聞けなかった。だから暗記をしてくれてありがとう、と今日の参列者は○○くんに感謝の弁をみんなするように。 「ありがとう」と。

参加者

じゃあぼくにも?

楳木代表

覚えた人に感謝するのだから、今回は感謝の対象にはならないね。

そうして『世界の情勢は混沌として帰趨をしらず』と言った中の一つが叱られた事のない子供が社会人になった時に会社では困るという事もその一つだということにして子供達に解説してあげないと。

「だからお母さんはあなた達が叱られて嫌だろうけれどもあなた達が立派な社会人になるために叱っているのだよ。」と全部そこへ繋いでいく。そうすれば体系化が出来てくるから。この子達に。 「小さい頃、お母さんは角が生えているように怒ったけれども、社会人になった時に困らないように怒ってくれたのだ。」というふうに大学を出て、社会人になった時に初めてわかると。そういうことを重ねていくという事が大事です。

参加者

私達は叱られる事が当り前で育ってきたけれど、それがないというのは笑い話ではないのですね。

参加者

今は学校の楳木代表からも叱られないですからね。私の子供が学校に行っていた頃は楳木代表が怖いものと思っていましたが、今は違うのですね。

 

叱る

楳木代表

だから、体罰と叱るということの境界線が微妙にある訳です。そこを昔の教師は判断して叱っていたのです。しかしその判断ができなくなったので、問題を起こさないために叱らなくなったのです。体罰として訴えられるようになるから。その問題を避けるためにやらなくなったということです。

それともう一つは、学校の教育方針として自主性を重んじるという事が出てきたのです。叱ると自主性が出ないというような馬鹿な判断をしてしまっているのです。自主性というのは叱らないと出てこないわけだね。叱って人間として最低限の事が出来るようになって、その上で本当の自主性というものが生まれてくるのだけれども、 自主性といったらみんな放っておいたら自主性が出来るくらいに勘違いしてしまったのだね。それが大きな問題点として出てきます。例えば、主体性とか自主性とか個性とかこういうものは自由にしたらできると浅はかな人は思ってしまいます。しかしこんなものはね、個性でも何でもありません。わがまま放題だから。これを個性と言ってしまったら、人類の文化というものは育っていきません。

やはり、基本があってその上で個性というものが出てくるという考え方でないとね。だからとにかく中学に入るまでは徹底的に叱っていくと。

参加者

私は子供が高校になってもガミガミ叱っていました。だから今、子供達も自分の子供にガミガミ言っていますね。今、楳木代表のお話を聞くと、叱って良かったと思いますね。

楳木代表

そう、良かったね。ヤッパリそれがないといけないね。

参加者

叱られずに育った子供は、自分の子供にも叱らないのですか?

楳木代表

そうだね、叱らない。だけど勉強だけは叱ります。「勉強しなさい。」と。だから勉強しなくて良いのだよ。人間性を叱らないとね。

参加者

勉強しなくても良いんだ。

参加者

宿題をまずやりなさいと言っているだけで、「勉強しなさい。」ではないよ。

楳木代表

だから言われないとやらないような、人間が高校や大学に行っても仕方がないのです。それなら最初から技術職人の見習いに入って、中学を卒業したら徹底的に鍛えて貰った方がどれだけ素晴らしい職人が出来るか。そういう人たちによって、手先で0.何㍉という鉄板の厚さがわかる人たちが出来てきたのです。それを屁理屈で覚えた後、そのような所に行ってもそのような技術は身に着かない。それは若いうちからそういう世界に入っていったほうが技術は身につきます。

参加者

本当に素晴らしい技術ですよね。

楳木代表

それは学問ではありません。それはずっと染みつけさせるような、親方からしつけられてやっているのです。まあ技を盗むようなかたちのところもありますが。

参加者

勉強が嫌いな子は義務教育はしっかりやってもらって、 行きたくないというならば高校や大学に行かず、技術を身につけるような仕事を見つけるほうが良いですか?

楳木代表

だからそれは極論になってしまいます。要するにもう一つあるのは、この世の中というのは学歴社会だから、勤める時には大学まで出ておいたほうが良いのです。

勤め ることしかできないようなら。そのような人であれば、 勤めるからには給与体系が大卒から高卒というね、ある いは新聞記者になるためには今は大卒でもなれませんから。

新聞記者は大学院を出ていないと今はなれません。

だからなりたい職種によってやっぱり大学や大学院を出ておかないと。今、これだけ情報が豊かになったら、大 学くらいの学力では記事が書けません。

専門的な知識がものすごく豊富だから。大学院をでて、しかも専門の記事のところしか配置されません。経済学の博士を取ったら、経済学のそういう欄に行くと。いうような事しかできません。それ程情報量が多いし、深みがあるし、ものすごく進んでいるから。

だからそういう世界と一方では、機械で計測してもできないような完成しないところを人間の感覚で完成させるという世界が別面ある訳です。

例えば鍛造をするときに叩いて鉄の塊を作り上げるときに、機械を使って叩いてもどうしてもムラができるから、そこは熟練工が見ていて「こっちを叩け。」 と指示して完璧な形を作ります。

そして作った後で計測すると、熟練工の指示で作ったほうがきちんとした鉄の塊ができるという事だからね。

そういう世界に育てるかというのは親がじっと見ていて、「勉強しなさい。」と「もう勉強するな。」とか言っていかないといけません。

 

奥さん

だから母親は一番勉強していかないといけません。

昔のいわゆる奥さんというのは、今誰でも「奥さん」といわれているから勘違いしているけれど、本当の「奥さん」は内向きの一番奥にいる人の事を「奥様」と言っているのだから、一番家の中の仕事で最高の見識を持った人のことしか「奥様」「奥さん」とは言えません。

それをだれでも「奥さん」 と言わ れているので勘違いが起きているのだということもわか ってくると、よっぽど勉強をしていかないといけません。

だから○○さんのようにいつもラジオをかけて情報収集を奥さんという人はしておかないといけません。

ありとあらゆる情報を聞いておいて、その中から解説者の話とかを聞いてどのように判断するのかというのを判断しつつ、家庭を守っていくと。

そこまでやって初めて「奥さん」と呼ばれる事が出来るのです。

参加者

では今の状態だと、「お家の中にいる人」ということだけになってしまいますね。

楳木代表

そうだね。「家内」というくらいだね。

だから「家の奥さん」というのは相当素晴らしくなった人のことしか言えません。

「家の家内は」というのはまあ家にいる人という程度ですね。

参加者

うちでは「おっかさ」だからね。(一同大笑い)

楳木代表

それと昔からの論語を読み込んでおかないと。論語というのはどういうものかというと、昔の中国の偉い人が自分の人生観を語っている訳だから。

《我十五にして学を志す》というのは「十五に学を志しなさい。」というのではなく、私は十五のときに学を志しました。ということです。《三十にして立つ》というのは三十のときにすべてやるべきことを悟って立ち上がったという事です。《四十にして惑わず》というのは四十歳のときにはどんな偉い人が言ってきても自分の判断は狂わないという事だったんだよという事を語っているのだから。人に言っている訳ではない。

そこまでの境地に立った人の話を自分に取り入れて、子供たちの人生観のときに「孔子と言う人はこのように話しているのだよ。」と話してあげないと。

 

【『地上天国』十六号、昭和二十五年八月十五日】

『物を識(し)るという事』

この物を識(し)るという言葉ほど、深遠微妙にして意味深長なものはあるまい。恐らく此(この)語は世界に誇っていい日本語といえよう。然(しか)し簡単には判り難い言葉なので、今出来るだけ判り易くかいてみよう。

物を識(し)っているという言葉の意味を、解剖してみると斯(こ)ういう事になる。それは世の中の凡(あ ら)ゆるものを経験し、透徹し、実体を摑み何等かの形によって表現するという意味である。例えば或(ある) 問題に対して、斯(こ)うすれば斯(こ)うなるという唯一つの急所を発見する事である。それに引換え大人気ない小児病的議論を振廻したり、軽率な行動に出たり、人から非難され軽蔑される事に気が付かないで平気で行う事がつまり物が見えない、物を知らないという人である。世間よく謂(い)われる、彼奴(あいつ)は未だ若いとか乳臭いとか、野暮天だとか言われるのがそういう人間である。又識者という言葉があるが、之(これ)は物を識(し)っている人を文化的に言ったのである。

以上 によってみても、今日の政治家などは物を知らない人が多過ぎる。大した問題でもないのに、無理に大き く採上げて騒ぎ立て、識者から顰蹙(ひんしゅく)される事に気がつかないのであって、自已の低級さを表白する以外の何物でもないのである。そうして斯(こ)ういう人間に限って小乗的主観の亡者である。斯(こ)ういう小人物の行動によっていつも国会の能率は阻害され、国会の信用を傷つけられる。常に独りよがり的売名に一生懸命である。故に此(こ)の物を識(し)らない人を言い換えれば没分暁漢(わからずや)でもある。

今日政治の論議なども、長い時間を潰してもなかなか結論が得られないのは、右(上記)のような没分暁漢(わからずや)が多過ぎるからであろう。判った人が多ければ容易に一致点を見出される筈(はず)である。処(ところ)が茲(ここ)で困る事には、物の判った人はどうも出しゃ張りを嫌い、わからずやと争うのを避けようとし、つい温和しくなり、引込思案となる。処(ところ)が没分暁漢(わからずや)共はこれを好い事にして益々出しゃばる。処(ところ)が世の中は面白いもので、出しゃばると有名になる。有名になると選挙の時の当選率が高くなるので、其(その)結果判った人はいつ も少数となり、わからずやが多数を占めるという事にな る。近頃の如く問題の論議に徹夜までしなければ結論を得られないというのはよくそれを表わしている。

とはいうものの結局は判った人の意見が採用されるのも事実である。何よりも政界で頭角を顕(あら)わす程の人は出しゃばらないでゐていつとはなしに人望を博し重用されるのである。今の吉田首相などは、現政治家中一番物の判った人といえるであろう。

処(ところ)がひとり政界のみならず、社会各面に於ける有能者といわるる人は比較的物の判った人であるのは自然の成行であろう。以上は精神的方面をかいたのであるが、次に他の面即ち物的の面をかいてみよう。これを判り易くかくには、芸術的方面が一番いい、というのは物を識(し)ってる人は、偉人型が多いと共に審美眼に於ても優れているからである。

先(ま)づ、最先に採り上げたい人は彼の聖徳太子である。彼が仏教文化特に芸術方面に優れていた事は論議の余地はあるまい。今尚法隆寺その他に残っておるものの何(いず)れも燦(さん)として光を放っているに見ても明かである。又有名な憲法十七条は、日本に於ける法の基礎ともいえよう。次に挙げたいのは彼の足利義政である。彼が他の面では兎(と)や角言われるが、芸術方面に到っては立派な功績を遺した。彼の銀閣寺の如き建造物は固より、彼は支那(しな)美術を好み宋元時代の優秀なる芸術品を蒐(あつ)めた外、目本美術を奨励し、珍什名器を作らせた事で、東山御物(ぎょぶつ)として今も尚、吾等の鑑賞眼を満足させている功績は高く評価してよかろう。

茲(ここ)で、吾々が最も最大級の讃辞を与えたい人 物としては彼の豊太閤であろう。彼が桃山式絢爛た芸術 文化を生んだ半面佗(わび)の芸術としての茶の湯に力を注いだ事で、それまで甚だ微々たる存在であった茶の湯を、一世の鬼才千利休を援け、茶道大成の輝やかしい功績を残した事も特筆大書すべきであろう。之(これ) 等によって当時美術文化の勃興と共に名人巨匠続々輩出した。彼の小堀遠州や楽陶の名手長次郎の如きもそれで ある。彼は又義政に習い、支那(しな)日本の美術は固 (もと)より朝鮮の名器までも蒐集し、日本の陶芸に新 生命を与えたのも彼の業績である。茲(ここ)で見逃し得ないのは彼の本阿弥光悦の生れた事である。彼光悦は

画を描き、書を能(よ)くし、蒔絵に新機軸を出し、楽陶を作る等、何(いず)れも独創的のものでゆく所可 (か)ならざるなき多芸ぶりは、到底他の追随を許さないものがあった。而(しか)も彼が予期しない一大功績を残した一事は、彼没後百年を経て、日本が生んだ最高峰の偉匠尾形光琳である。彼は既に亡き光悦を慕い、出藍(しゅつらん)の一大名人となった。其(その)他陶工仁清、乾山も挿(さしはさ)まない訳にはゆくまい。その又流れを汲んだのが抱一で、彼も凡手ではなかった。

而(しか)も秀吉の傑出している点は、彼が百姓の子でありながら、若年にして既に美術の趣味を解し、早くから名器を蒐(あつ)めたという一事は洵(まこと)に驚嘆すべきものである。普通世間からいえば物を識(し)るまでには相当の苦労を重ね、而(しか)も中流以上の境遇を条件とするに対し、彼の如き卑賤より出でて殆んど戦塵の巷を彷徨(ほうこう)し続け来ったに拘

(かか)わらず、何時(いつ)何処で習得したかは判らないが、あれ程物を知る人間となったという事は、実に稀世の偉人というべきである。

茲(ここ)で、文芸の面を瞥見(べっけん)する時、 何といっても歌人としては西行、俳人としては芭蕉であろう。此(この)二聖の芸術は、物を識(し)る人にしてはじめて成る作品であり、その代表作としていつも私の頭を去らないのは、西行の

心なき身にもあわれは知られける 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮

と、芭蕉の

閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声

である。

又今一人書落し難い物を知る人がある。それは不昧(ふまい)公の名で知られている彼の松平雲州(うんしゅう)公である。彼が多数の珍什名器を聚(あつ)め整理し、分散を防ぎ、萎扉(いび)せんとする茶道に活を入れたる其(その)跡を見れば、彼も亦(また)尊敬すべき人といっていい。

近代に至って物を識(し)る人として、私は俳優故市川団十郎を挙げたい。これは『自観随談』に詳しく載せてあるからここでは略すが、兎(と)に角大ザッパに代表的の数人をかいたが、物を識(し)る人とは全く最高の文化人であって、彼等の業績が如何に後世の人々の魂の糧を与え、趣味を豊富にし、情操を高からしめたかは今更言うまでもあるまい。成程発明発見や学問の進歩も、人類文化に貢献する力は誰しも知っている事ではあるが、右(上記)に説いた如く、物を識(し)る人の業績が、如何に暗々裡に文化に貢献したかは、改めて見直す必要があろう。

 

〈子供が坊主頭の弟に「ツルツル」と言っているのをご覧になって〉

楳木代表

「ツルツル」と言っているときには「外れている。」と言わなければなりません。坊主頭は一番滑らないのです。ツルツルというのは剃った頭の事を言うのです。剃った頭はツルツルだけど。坊主は頭が滑りません。たわしみたいだから。一番滑らない髪型だから。ツルツルという表現は「お前間違っている。国語の能力はそれしかないのか!!学校で何を勉強しているのだ!!」と懇々と叱らなくてはなりません。

参加者

そうですね。坊主頭はツルツルではないですね。

楳木代表

そうよ。ツルツルでも何でもありません。坊主が一番ざらざらしているのだから。短いと髪の堅い人は刺さって手を当てると痛いでしょ。だからたわし頭と言うなら当っているけれどツルツルは国語的には外れていると。そのようにして「人の嫌がることを言うな。」という言い方ではなく「お前の表現力はその程度か!何のために学校に行っているのか!」と叱りつけないといけません。

参加者

頭を柔らかくしておかないといけませんね。

楳木代表

そうそう。だから賢いお母さんに育てられた子供は幸せな訳です。そうすると今度はすぐ「たわし」というから、「何で単純な男なの。」と「新しいことを言うとすぐ言う。」と。

参加者

「叱る」「叱られる」というときに、偶々私が居合わせたときにそのようなことになった時に自分が怒ってしまうのですが、そこは黙ってみていれば良いのですか?

楳木代表

だから今私が言ったように言えば良いのです。親が気がついてない事を言わなくてはなりません。論語にはこう書いてあったよと。

参加者

という事はもっと勉強しなくてはいけません。

 

映画【サマーウォーズ】

楳木代表

ばあやはもっと勉強をしなくてはなりません。おばあちゃんがボーっとしていてはいけません。おばあちゃんはもっともっと勉強しなくてはいけません。九州では孫が出来たら「ばあちゃん」、ひ孫が出来たら「ばばちゃん」と「ば」が二つ付いているのです。だから知恵が一番ある人と見られているのです。 映画で【サマーウォーズ】というのを見た?このDVDを一度借りてきて見てごらんなさい。素晴らしいです。

ひいばあちゃんが武家の跡を取って、取り仕切っているところでね、そしてサイバー攻撃を受けたために世界が大混乱に陥っているときに、そのおばあちゃんの指示でそれをサイバー攻撃の中をやっつけるというそういうドラマ立てだから、アニメだけど非常に面白いです。夏休みに起きたサイバーの中の戦争の話です。だけどそれを見たら感動すると思いますよ。

参加者

泣いちゃう?

楳木代表

エーンというのではなく、じわっと泣けてしまいます。

参加者

私は子供にあまり叱ることがなかったので、叱らずに育てましたが、子供が子育てをするときにはどのように叱るようにしたらいいですか?

楳木代表

自分の事を自分でする、人に迷惑を掛けない、ウソをつかない、この三点が守れなかったときにはしっかり叱らなければなりません。先ほど話が出た、自分が飲んだペットボトルをその辺に置きっぱなしにしているとか、自分の部屋が自分で片付けられないとか、そのようなときには叱らなくてはいけません。

参加者

メシヤ様のご対談で聖徳太子が出ていましたが、奈良に行ったら法隆寺は行ったほうが良いですか?

楳木代表

行ったほうが良いというより、是非行って下さい。折角行くなら救世観音を特別に観ることが出来る期間がありますから、その時期を調べて行ってみて下さい。そして善言讃詞を奏上できれば良いですね。

参加者

メシヤ様とつながらせていただいているのに、様々な事を解決できずに苦しんでいるけれど現在の教団で頑張っている方々はメシヤ様の御教えは自由に拝読できないのですか?

楳木代表

いや、そっちの教団の人はそういうものはないから。自分の都合のいいところだけ抜粋して御教書みたいなものを作っていたので、今まではなかったのです。□□□□会は百篇の抜粋しかなかったのですから。それに基づいて信仰をみんなにさせていたのです。だから一面すばらしい力量だったという事ですね。指導者が。たった百篇の御教えだけでみんなを引っ張っていったのですから。

参加者

宗教の進歩という事が書かれていましたが、そこにもつながらせていただくように努力します。

楳木代表

信者が進歩しなくては宗教自体進歩していかない。そういうことを御願いして。

 

【『栄光』百二十七号、昭和二十六年十月二十四日】

『天国的宗教と地獄的宗教』

世間宗教とさえいえば、其(その)信仰者は精神的にも肉体的にも、多大の恩恵を蒙り、安心立命を得て、幸 福な家庭が作れるものと信じ、それにつれて社会も国家もよくなり、此(この)世は天国楽土になるという理想を目標として、一意専心拝んでいるのは衆知の通りであるが、茲(ここ)に誰も気が付かない重要な事柄があるからかいてみるが、それは宗教にも天国的宗教と地獄的宗教の差別のある事である。

それに就(つい)て遠慮なくいえば、今日迄の宗教は悉(ことごと)くといいたい程地獄的宗教であって、真に天国的宗教はなかったといってもいいのである。としたら我メシヤ教こそ、初めて生れた処の天国的宗教である事は、言う迄もなく、従って今日迄の宗教とは、何から何迄格段の異(ちが)いさである。

 

信者は充分知っている事だが、本教が之(これ)程進んだ医学でも治らない病気を、訳なく治して了(しま)う事実は、毎号本紙に満載している通りであるが、それはどんな人でも、数日間教修を受けただけで、驚くべき治病能力を発揮出来るのである。博士から見離された病人でも治せるし、自分で自分の病気も治せるので、殆(ほと)んど信じられない位である。併(しか)し事実は厳然たる事実であるから、疑う人は先(ま)づ実地に触れてみられたいのである。其(この)ような訳で本教へ入信するや、月日が経つにつれて、自分も家族の者も日を逐(お)うて健康になってゆき、遂には病なき家庭となり、元気潑剌たる者のみになるので、一家は明る く、凡(すべ)てが順調に運び、真に歓喜の生活者とな るのである。勿論何年も何十年も、医者や薬の御厄介になっていたのが、全然縁切りとなって了(しま)うから、経済上からも、精神上からいっても、其(その)利 益の莫大なる想像も出来ない程である。之(これ)こそ全くの天国の救いであって、今日の如き地獄の世の中に喘いでいる人は、到底信じ得られない程で、之(これ)こそ人間理想の夢の実現でなくて何であろう。

右(上記)のような訳としたら、今の世の中の多くの信仰との異(ちが)いさである。事実従来の宗教によっては熱心に信仰しても、病気に罹るのは一般人と殆(ほと)んど同様で、止(や)むなくお医者の御厄介になるが、容易に治らないばかりか、往々不幸な結果になる事もあるが、其(その)場合寿命だから仕方がないと諦めて了(しま)う。そうかと思うと常日頃、ヤレ風邪を引くな、結核菌や伝染病菌に冒されるな、寝冷えをするな、暴飲暴食をするな等、何や彼や五月蠅(うるさ)い事ばかり言われ、戦々兢々(せんせんきょうきょう)と其(その)日を送っているのが実状である。而(しか)も最も悲喜劇ともいうべぎは、長年病床に在って呻吟し乍(なが)ら、御当人は神に救われたといって満足して いる人をよく見受けるが、之(これ)などは吾々からみ ると全く自己錯覚である。此(この)様になっても運命と諦め、無理に苦悩を押えつけ、強(し)いて満足しているという常識で一寸考えられない此(この)観念を、信仰の御蔭と心得ているのだから可哀想なものである。それでも御当人だけは精神的に救われたとしても、周囲

や家族の者は、実に惨めなものである。御本人もそれを知らない事はあるまいが、肉体的苦痛の余り、そんな事を考える余裕すらないのであろう。之(これ)を一言にして言えば、精神は救われても肉体は救われないという訳で、言わば半分救われて、後の半分は救われないので ある。従って真に救われたという事は、霊肉共に救われ る事であるが、斯(こ)ういう宗教は恐らく世界にない であろう。此(この)様な訳でせめて半分だけでも救わ れたいと思って、既成宗教の信仰者となるのだから、天 国とは凡(およ)そ遠去かっている事で、ヤハリ地獄的救いでしかないのである。何よりも今日大宗教となる と、殆(ほと)んど病院を経営しているにみて明かであ

る。而(しか)も社会は之(これ)を是認し、立派な宗教事業と心得ているのだから困ったものである。何となれば其(その)宗教に治病の力が全然ない事を表白している以外の何物でもないからである。本来なれば科学より宗教の方が形而上の存在であるべきだが、之(これ)では宗教の方が科学以下になって了(しま)っている。一言にしていえば宗教としての生命は喪失して了

(しま)った訳である。之(これ)に引換え本教の特色である病気治しの成績であるが、事実科学ではどうにも治らない患者を、ドシドシ治している。之(これ)こそ生命ある宗教と言わずして何ぞやである。

次に本教は芸術を大いに奨励している。恐らく既成宗教も数あるが、本教位芸術に重きを置いているものは外にあるまい。というのはいつもいう通り、天国とは芸術の世界であるからで、即ち芸術は真善美の中の美である以上、最も重要なものである。言う迄もなく、人間にと って美から受ける感化は軽視出来ないものがある。美によって心を楽しませると共に、不知不識(しらずしらず)の内に品性を向上させ、平和愛好思想が醸成されるからである。此(この)事は大自然を見てもよく判る。

先(ま)づ第一は山水の美である。四季折々の旅行等か ら受ける景観の美は、常日頃(つねひごろ)の穢れを洗い浄め、元気を快復し、明朗なる精神を育(はぐく)み、而(しか)も歴史上の智識をも豊富にされるのであ る。又如何なる町でも村でも至る処の木々の緑、花の色、百鳥(ももとり)の囀(さえず)り、春の野に舞う蝶々、秋虫の集(すだ)く情緒等々、人間を娯(たの)しませる凡(あら)ゆるものは地に充ちている。天を仰げば日月星辰の輝きは、人の心をして悠久な神秘境に誘うのである。としたら之(これ)等一切は深い神意の表われでなくして何であろう。其(その)他飲食(おんじき)にしても山の幸海の幸は勿論、人間の味覚を楽しませるものの、如何に多いかである。取り分け言いたい事は、人間に就(つい)ての美である。舞い踊る姿、唄う声の麗(うるわ)しさ、スポーツマンの均整美、女性の裸体美は固(もと)より、人間天与の技能としての絵画、彫刻を始め、種々の美術工芸、建築、庭園美等々、 之(これ)等も数え上げれば限りない程であって、全く此(この)世界には自然と人間の美が充ち溢れている。

之(これ)等を見て考えられる事は、神の御意志の那辺にあるかで、言う迄もなく将来天国を造るべく、其(その)要素の準備でなくて何であろうと思われるのである。

私は此(この)意味に於ての一模型として、現在地上 天国を造りつつあるが、此(この)構想は凡(あら)ゆる自然と人工美を綜合調和させたもので、今日迄何人も試みた事のない画期的新芸術品であろう。之(これ)に よって万人神意を覚り、人生の歓びを深からしめ、心性の向上に大いに役立たせんとするのであるから、之(これ)を以てみても本教こそ天国的宗教である事が分るであろう。

処(ところ)が、既成宗教に於ては、此(この)美の観念に対しては、昔から実に無関心であった。否反って美を否定する事が、宗教本来のもののように錯覚して来た事である。それは大抵な宗教信者は、熱心であればある程粗衣粗食、茅屋(あばらや)に住み、最低生活に甘んじているのである。之(これ)では全く真善 美ではなく、真善醜といってもよかろう。斯(こ)うい う信者の家庭に入ると、何となく湿っぽく陰欝であり、 全く地獄の感がするのは衆知の通りで、之(これ)を吾 々は信仰地獄といいたいのである。その頭で吾々の方を見るから分りよう筈(はず)がない。何しろ地獄の眼で見る以上、本教の行(や)り方が間違っているように思えるのであるが、実は此(この)観方(みかた)こそ恐るべき迷信である。従而(したがって)、此(この)迷 信を打破し、目醒めさせ、天国的宗教こそ真の宗教である事を、認識させたいのである。

斯(こ)うみてくると、厄介なのは現代の世相である。それは科学迷信ばかりではなく、宗教迷信も加わって、地獄世界を作っているのであるから、此(この)盲点を充分判らせなければならないのである。それには宗教以上の超宗教、即ち天国的宗教が出現する事であって、それが我メシヤ教である事を明言するのである。其(その)理由こそ今迄は夜の世界であったが為で、愈々

(いよいよ)昼の世界に転換せんとする、今天国創造の大使命を以て生れたのが我メシヤ教である事を知るであろう。

 

楳木代表

では六月は月次祭と地上天国祭を行います。参拝は地上天国祭を最優先にしていただきたいと思います。

 

[メシヤ講座no.112浜松支部 2010(平成22)年5月]