学びの骨子(平成29年9月)

<研鑽資料 骨子>

新潟出張所 庭山光太郎

 

テーマは「真の大乗宗教と浄化作用、再浄化に関する御教えを土台に骨子をまとめて」との要請が8月10日にあり、予定期限は10日後の20日との事。

少し漠然とし過ぎているので、「どうしてこういう課題になったの。」と菅谷氏にお伺いを立てた。菅谷氏曰く、「来月のメシヤ講座は『主神様とメシヤ様』のP.72の『真の大乗宗教』なので、浄化も厳しいから浄化作用、再浄化について書けないか。」という事らしい。「それは菅谷さんの方が適任ではないですか。」と振ったら、「いや、楽しみにしている人もいるんですよ。」と煽(おだ)てられ、“あな可笑し 豚も褒めりゃ 木に登る”で「あァ何て俺は人がいいのだろう、頼まれたら断ることが出来ない健気(けなげ)な豚ちゃんなんだなぁ」とつくづく思ってしまう。

さて、書くからには気合を入れて何とか間に合わせないと、後6日あるうち盆休みは実質1日だから日曜入れて丸々使える日は2日しかない。あとは神様にお願いして進めていく事にします。

 

平成29年7月16日の連絡事項に、「著述偏第7巻P.486『日と月』を軸に学びをして欲しい。」という箇所があり、

 

『自分達が神様と御縁があってこういう役割を得ているので、意識したかしないかは別として人類全体の事として日をお出ししたのだから、これからメシヤ様が仰っていた事がこれから現実に表面化してくる。』

 

『「日」が出たという事は、これからは実際にその力が強く自分達の世界に影響を及ぼして、自分も周囲も本当の意味での御教えに沿ったあり方にさせて頂けるのだという事を徹底させる一歩としてこの御教えを学んで欲しい。』とあり、

“実は先月末に伝わって来ていた内容では8月の学びは「小乗信仰」の予定でしたが、今回伝わって来た詳細を見ると変更されており、それまで伝わって来ていたものは白紙になっていました。”

とある事から、9月の学びが『真の大乗宗教』という事だから、その時に「大乗宗教」と「小乗信仰」を併せれば8月の小乗信仰は取り消されても構わないという事で白紙になったのではないかと思われる節がありまして、私がもたもたしていた為に、8月が総括になってしまい、ひと月繰り越されたのかも知れないのです。

 

然しこの連絡事項の前に‟浄化自体が報酬である。„という箇所があり、大乗宗教と小乗信仰と浄化作用・再浄化を書くには都合上ピタッと来るものがあり、「上手く出来ているなァ」と思わず感心してしまいました。

 

そこで「大乗宗教と小乗信仰」は「宗教と信仰」の異いはありますが、「大乗と小乗」の意味がはっきりすれば、おおよそ宗教も信仰も当て嵌める事は容易で、結果としては同じものと解釈してもいいのではないかと思われるので、「大乗と小乗」に就て書かせて頂けばいい事になるのではないかと思います。

 

大乗と小乗とは

そこでこの大乗と小乗とはどういうものかと言えば、仏教用語であり、仏教はキリスト教も含め御教えでは「夜の世界に於て悪のブレーキの役目としての存在」となっていますが、それは主神様の御経綸上からの解説であり、人間考えで及ぶ事が出来ないほどの、それこそ神的大乗的見方と言ってよく、人間サイドでは神仏による「人間の教育課程」ともいうべき役割を担ってできた宗教的教育体系と言えるのではないかと思うのです。勿論物質的学問体系に先行して出された教育課程ですから悪のブレーキ役というのは充分納得できるものです。

 

仏教の教育課程についての解説

先ず初頭の教育課程が「小乗」と言われ、この小乗には二つの過程があって、一つは「声聞乗」、もう一つは「縁覚乗」と言われている。

 

「小乗」に於ける「声聞乗」について

仏教の究極の目標は「涅槃(ねはん)」や「如来乗」と言われる安心立命の境地に至ることでその一歩が声聞乗であり、その最初に「苦・集・滅・道」という四諦を説き煩悩を断ち切らせる事から始まる。

 

・苦諦(くたい)

「苦」そのものの実在を先ず認める事である。つまり〝この世は苦の娑婆なり〟と認める事である。

・集諦(じったい)

「集(原因)諦(さとり・つまびらか・真相・あきらめ)の成就」とはこの「苦」が何故に出来てきたか、つまり現在の煩悩の原因を発見する事である。それは人間の過去における不明さと、その不明さによって行われた各種の煩悩の集積によって「苦」が生じたのであるという事を悟る訳である

・滅諦(めったい)

苦の原因が人間の不明さとその結果としての煩悩から起こったものであるとすれば、その不明を明に変える事によって、正しい行いをすることによって煩悩を変じて菩提(ぼだい・さとり)とし「苦」の世界を変じて涅槃の世界とする。というのが滅諦成就の悟りである。

・道諦(どうたい)

滅諦の成就の結果、苦を生起せずに逆に楽を生起する方法、道として正しい行いをすればよいというので「三十七道品」という基準を示された。

 

この「四諦」「苦・集・滅・道」の説明として「病気」を例にとって見ると次の如くなる。

一、自分は病気で苦しんでいる。

二、この病気は浄化作用であるという事を愚かなために知らず悪化作用と誤解して病気を治すために薬を用いたためである。

三、薬さえ用いずにそのまま浄化させればよかったのである。

四、この後は病気は浄化作用であるという事を知って一切薬を用いず浄霊法によって体を奇麗にしていれば病気の苦しみはなくなるものである。

という事になって全く簡単である浄霊法こそ、これまたメシヤ様の御教え「苦を集めて滅する道」である事がわかるであろう。

 

※参考までに「三十七道品」について

三十七道品

・四念処=四種の観想

身念住(体をあるがままに観察する)

受念住(受をあるがままに観察する)

心念住(心をあるがままに観察する)

法念住(法をあるがままに観察する)

・四正勤=四つの努力

已生悪断(すでに生じた悪は除くように)

未生悪令不生(いまだ生じてない悪は生じないように)

未生善令生(いまだ生じていない善は生ずるように)

已生善令増長(すでに生じた善は増すように)

・四神足=四つの自在力

欲(すぐれた瞑想を得ようと願う)

精進(すぐれた瞑想を得ようと努力する)

念(すぐれた瞑想を得ようと心を集中する)

思惟(すぐれた瞑想を得ようと智慧をもって思惟観察する)

・五根=五つの能力

信根

精進根

念根

定根

慧根

・五力=五つの行動力

信力

精進力

念力

定力

慧力

・七覚支=七つの悟りを構成するもの

念覚支(身・受・心・法の状態を観察、気をつけていること)

択法覚支(教えの中から真実のものを選び取り、偽りのものを捨てる)

精進覚支(一心に努力する)

喜覚支(真実の教えを実行する喜びに住する)

軽安覚支(心身を軽やか・快適にする)

定覚支(心を集中して乱さない)

捨覚支(対象への囚われを捨てる、対象への執着がない状態)

・八正道

正見(正しい見解)

正思(正しい思惟)

正語(正しい言葉)

正業(正しい行い)

正命(正しい生活)

正精進(正しい努力)

正念(正しい心の持ち方)

正定(正しい精神統一)

[三十七道品、Wikipediaより抜粋]

 

小乗に於ける縁覚乗

小乗門の第二は縁覚乗であるが、この縁覚乗の中心になるのは十二因縁を知る事である。そしてこの十二因縁とは声門乗の「四諦」の第一、第二、である、苦諦と集(原因)諦とを細別したもので、人間には「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」という11の「原因」で繋がる縁で、「老」・「死」・「愁」・「悲」・「苦」・「憂」・「悩)という結果を生じる。これが「十二因縁」であり、過去、現在、未来に繋がっていると覚るべきで、それには「八正道」、「三十七道品」を行って行けば、苦の世界は変じて楽の世界となり涅槃に到達できるという訳で、婆羅門行者が難行苦行を重ねて始めて涅槃に達すべきものと考えていたのに対し、釈尊は簡単な方法を教えられたのである。が、然し簡単といっても、それは当時の婆羅門の難行苦行と比較しての事であって、仲々大変である事は二千年以上経た今日でさえ、本当に苦を変じて楽となし、涅槃の境地に達した仏教信者が稀少である事実で判る筈である。つまり八正道とは三十七道品の中の最後の部分、

正見(正しい見解)

正思(正しい思惟)

正語(正しい言葉)

正業(正しい行い)

正命(正しい生活)

正精進(正しい努力)

正念(正しい心の持ち方)

正定(正しい精神統一)

という八つの正道を守れば成道し得るという事であり、三十七道品とは、四念書、四精勤、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支に分けられていて、なかなか面倒である。然しこの小乗門は本当の救いの道でなく方便の一つであるから、本当は取り上げる必要がないのであって、第二門である大乗門に至ってはじめて救いに近づくことが出来るのであり、然し、これとても方便の一つであるから、釈尊は最後に至って小乗、大乗も捨てられ、第三門である如来乗こそ真の涅槃に達する唯一の道であると説かれたのであるが、この極め手が遺憾ながら今日迄の仏者によって引き継がれて来なかったのである。

[光友紙14号(昭和39年2月15日)参照]

 

※参考までに「十二因縁」について

一、無明=無知

二、行=自我が芽生え、自己形成

三、識=自他の区別と判断

四、名識=個体的存在の精神的竝に物質的な諸要素、「五蘊」とほぼ同じ

五、六処=六根、眼・耳・鼻・舌・身(触)・意(心作用)

六、触=対象との接触による感知

七、受=感情が生まれる

八、愛=欲望が生まれる事。渇き、渇愛いわゆる煩悩

九、取=執着

十、有=起きること

十一、生=生活

十二、老死

 

※四、の「五蘊(うん)」とは般若心経の出だし『観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空』にある「照見五蘊皆空」で、「観自在菩薩が深般若(智慧)波羅蜜多(完成)を行ぜし(修行)時、五蘊は皆空なりと見極めた」とあり、「蘊」は薀蓄(うんちく)のウンで、「たくわえ」「あつまり」を意味し、自分という経験主体を構成する基幹的な要素という程の意味で、色・受・想・行・識の五つある。

色=体がある

受=感覚がある

想=イメージを持つ

行=深層意識がある

識=判断をする

この五つは紛れもなく自分を自分たらしめている根拠で、五蘊があるから自分が確かめられる、言い換えれば自分という存在は五蘊なのだというのです。

しかしその五蘊も自性空であると見極められたというのです。その解釈が

「体は自分を自分たらしめている根拠には違いありませんが、どうやら自分そのものと考えるのは無理の様です。感覚も同様です。「私は苦しい」という時、それは「私に苦しみがある」という事であって、苦しみ自体は自分ではありません。「私は苦しみである」とは誰も言わないでしょう。表層意識としてのイメージや深層意識や判断も同様です。これらは「自分のもの」という事は出来てもそれ自体は自分ではありません。」

[宮坂宥洪氏著による「十二因縁」より抜粋]

そうしますと、五蘊は自分の根拠だとは言えても、五蘊そのものは自分ではない。つまり、自分は五蘊ではない、という事になりはしませんか„

 

見事な三段論法で結局は諦観を表現しています。つまり「苦しみは自分のものであって自分自身ではないのだから、自分は苦ではないのだ」と言ってるという事です。

『文明の創造』のP.313『仏滅と五六七の世』中の、

『・・・一切の欲望は結局一時的煩悩にしかすぎないのだから、諦める事だ。諦めきって了(しま)へば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、これが仏教の神髄である・・・』

という内容がその事を物語っている。

 

仏教における大乗門に就て  

菩薩乗

私は前項で仏教における小乗門としての声門乗と縁覚乗について説明したが、これは何れも小乗道であって、極言すれば利己主義であり、救われたい主義という事になる。そこで本稿に於ては大乗道としての菩薩乗について説明するのであるが、これは小乗道に対して大乗道であって利他主義であり、救い度い主義という訳である。即ち利他行によって涅槃の境地に達するのが菩薩乗である。前項で簡単に述べたように小乗門の声門乗のためには苦・集・滅・道の四諦を説き、縁覚乗のためには十二因縁法を説いて涅槃に達するためには各々八正道・三十七道品を守る事を示されたのであるが、この大乗門たる菩薩乗を簡単に定義づければ「六波羅蜜を行じて四波羅蜜の義が具備して涅槃に到達する」と示されたのである。(※波羅密=完成・至る)

 

そこで大乗道の菩薩たるものは先ず六波羅蜜を行じなければならないが、この六波羅蜜は次の如くである。

一、檀(だん)波羅蜜・・・・・布施波羅蜜(ほどこす事)

二、尸羅(しら)波羅蜜・・・・禁戒波羅蜜(いましめを守る事)

三、羼提(せんだい)波羅蜜・・ 忍辱(にんにく)波羅蜜(苦難に耐え忍ぶ)

四、毘梨耶(びりや)波羅蜜・・精進波羅蜜(怠らず励む事)

五、禅波羅蜜・・・・・・・・・禅定波羅蜜(心を鎮める事)

六、般若(はんにゃ)波羅蜜・・智慧波羅蜜(正しい智慧を持つ事)

そしてこの波羅蜜という事は簡単に言えば〝一切を究意したる智慧〟といった意味である。

 

そこで右の六波羅蜜を説明してみると、「檀波羅蜜」は布施行に徹底する事であり、「尸羅(しら)波羅蜜」は禁戒行に徹底する事、「羼提(せんだい)波羅蜜」は忍辱行に徹底する事、「毘梨耶(びりや)波羅蜜」は精進行に徹底する事であり、「禅波羅蜜」は坐禅行に徹底する事、「般若波羅蜜」は智慧行に徹底する事である。

即ち菩薩行者の資格である六波羅蜜とは布施・禁戒・忍辱・精進・坐禅・智慧に徹底する事である。そしてこれが利他行とし発顕されたのが第一の布施行であって、喜びを与える菩薩行の根本である。そこで菩薩行とは一言でいえば布施行ともいえる訳である。

以上で菩薩行とは「六波羅蜜を行じ四波羅蜜の義が具備して涅槃となる」という定義の中の六波羅蜜の意味は大体わかったであろうから、次は四波羅蜜であるが、この四波羅蜜とは次の如きものである。

㈠、常波羅蜜

㈡、楽波羅蜜

㈢、我波羅蜜

㈣、浄波羅蜜

と四つのことである。そしてこの四波羅蜜とは法華経二十八品中の第十五番目従地涌出品に述べてある地涌の四菩薩の各波羅蜜の事であって、即ち

上行菩薩は  常波羅蜜

安立行菩薩は 楽波羅蜜

無辺行菩薩は 我波羅蜜

浄行菩薩は  浄波羅蜜

と、右の四菩薩の四波羅蜜、これを、常・楽・我・浄の四波羅蜜という訳である。

 

以上の意味から仏教の大乗門たる菩薩乗とは六波羅蜜を体現して常・楽・我・浄の四波羅蜜の義を具備すれば菩薩として涅槃の境地に達するという訳である。

そこで菩薩行とはいつも私が言う通り、利他行であって六波羅蜜の発顕としての布施行により常楽我浄の四波羅蜜を開顕すること。簡単にいえば他人よかれの気持ちで「常」に「楽」しんで「我」を「浄」めることをいうのである。勿論この場合の我は他人の我である事は言を俟たぬところである。

 

以上で大乗門の菩薩乗についての説明は終わるが、前項でも一寸触れた如く、この大乗門も小乗門と同様、方便の教えであって仏道の本義ではないのである。何故ならば、仏道の本義たる涅槃とは平等大慧の実相に到達することであるから、利己行たる小乗門は勿論のこと、利他行たる大乗門も本当のものではないのである。このいずれもが平等大慧の実相ではなく不平等、有差別の真如相である。

 

即ち小乗門は救われたい人を対象とした教えであり、大乗門は救いたい人を対象とした教えであるから、いずれも相対的、差別的、不平等的状態であって、絶対的、平等的、無差別的実相とはいえない訳である。そこで小乗門も大乗門も真の如くであって真ではない訳で、今日まで仏教では真如実相といって、真如が上になっていたことは夜の世界であり、本当の事がかくされていたため、実相が下になっていたのである。昼の世界になると実相世界となるから本当の事が明瞭になるのであり、今日はその夜昼転換期なるが故に、本当の隠されていたことが次第に説かれることになった訳である。次項に説明する如来乗こそ仏道の本義である。

[光友紙15号、昭和39年2月15日参照]

 

仏教における一乗門について

如来乗

私は二回に亘って仏教における小乗門と大乗門について説明してその何れもが仏道の本義たる涅槃に到達する真の道ではなく、真の如き道であって、所謂「真如」の教えであったことを説き、本稿で説明する「如来乗」こそ真の教えであり、仏道の本義であることを知らせるのである。

如来乗とは諸仏如来の最高の教理であって前に述べた小乗門たる「声門乗」「縁覚乗」と大乗門である「菩薩乗」の三乗を超越して「如来乗」となるのである。その経理は釈尊の説法の最終段階の頃に説かれたものであって、「無行経」「瓔珞(ようらく)経」に説かれてある。即ち「瓔珞経」に〝大道に三乗なく、三乗は方便経にして応機の経なり〟とあるにみても肯けるのである。

「声門乗」「縁覚乗」「菩薩乗」の三乗を超越した「如来乗」こそ仏道の本義であって「如来乗」とは別の名を「一乗」とも「無上道」とも言って、この基礎になるものは人間の「心性」であり、この人間の「心性」は空寂にして無大、無小、無性、無滅、非住、非動、不進、不退で恰度「虚空」の如きものである。そしてこの「心性」は無相にして一切のものが平等大慧になるのである。仏道を一言にしていえば「如来乗」であり平等大慧の法であるとも言えよう。

人間各自の「心性」は本来「虚空」と等しき「大宇宙性」であり、仏教で唱える「涅槃性」である。この「涅槃性」を仏教では「清浄、寂静、光明、無諍」と説明している。然るにこの本性であるべき「心性」が「我」(われ)という「我見」を立てた事によって「我」(われ)と「彼」(かれ)との盲見を生じて本来無差別平等の絶対境たる「心性」は我彼の差別、不平等の相対境を生じたのである。小乗門も大乗門もこの彼我の相対境であるから本物ではないのである。本物は無差別、平等の絶対境である事を知るべきである。

ここで判り易くするため「小我」「大我」「真我」の三つの語を以ってすれば「小我」は「自我」を中心とした利己主義であり勿論他の「自我」の存在を認めて差別、不平等の相対境であり、「大我」とは「自我」を認めるとともに他の「自我」をも認めて「小我」が利己主義であるのに反し、利他主義に立ったものであるが、矢張り「我」と「彼」とを認める訳であるから相対境である。この「小我」が声門乗であり縁覚乗であることと、「大我」が菩薩乗である事は今までの説明で了解できる筈である。然るに「真我」とは「彼我」の区別なき無差別、平等の絶対境であり、これが人間の「心性」であるとすれば、この「真我」こそ「涅槃性」であり「大宇宙性」であることも知られよう。

そこで面白いことは「小我」である小乗門ではどうしても「真我」即ち如来乗に達することは困難であるが、「大我」である大乗門としての菩薩乗ならば今一歩で「真我」に達することが出来るのである。この故に大乗門の菩薩乗たる「常・楽・我・浄」が如来乗に転じた場合、「清浄、寂静、光明、無諍」の涅槃性に達することが出来ると説かれているのである。この「常楽我浄」とは私のいつもいう〝常に楽しく我を浄める〟ならば「小我」中心の「我」もなくなるし「大我」中心の「我」も不要となるから当然「真我」の平等大慧の絶対境に到達する訳である。そこで「如来乗」とは人間各自の「心性」は「虚空性」「涅槃性」「大宇宙性」と同一のものであるという真理を覚る事である。ここに於て一切の迷い、悩み、苦しみから解放され、真の安心立命が得られる事となるのである。

 

以上で「如来乗」の説明を終わるが、最後に釈尊の教えを纏めて初めから書いてみると、小我中心主義の人間に対して「四諦」「十二因縁法」を説き、大我中心主義の人間に対して「六波羅蜜」を説き、最後に右の教えは何れも方便であって、本物ではなく、本当は人間の「心性」は無差別平等であって、涅槃こそ人間の本質であることを開示されたのであるが、遺憾ながら最後の教えが不明であったために、人間は反ってその本質たる涅槃に迷う結果となったのである。法華経の常不軽菩薩品に曰く、〝声門を求むるものに応ずるに四諦を説き縁覚を求むるものに応ずるに十二因縁法をを説き、菩薩を求むるものに応ずるに六波羅蜜を説く〟とあり、また前に述べたように瓔珞経には〝大道に三乗なく三乗は方便経にして応機の経なり〟とて、これを捨てさせ、如来乗こそ一乗であり無上道であると解明されたのである。

吾々は仏道の本義を究めて如来乗に達することが出来て寔に有難いことではあるが、世の中は未だに小乗者の世界であるから、当分の間は大乗に下がり菩薩乗によって〝常に楽しく我を浄め〟てゆくことが神仏より与えられた使命と思うのである。

[光友紙17号 昭和39年2月15日より抜粋]

 

以上で仏教の究極の知恵に至るまでの、つまり教育課程の解説は終わらせて頂いて、本来の課題に移行したい。

 

「大乗宗教」と「小乗宗教」とはどのように分けられるか。そして「真の大乗宗教」とはどのようなものかに就て「文明の創造」と「主神とメシヤ様」から追ってみようと思います。

 

「小乗宗教」と「大乗宗教」、そして「真の大乗宗教」

 

仏教とキリスト教との比較で言えば、仏教は小乗宗教でキリスト教は「大乗宗教」という事になる。

 

仏教は東洋で、『・・・東洋は経であるから霊的、精神的であるに対し、西洋は緯で体的物質的であるから、今日の如き科学文化が発達したのである。宗教に於いても仏教は経であるから、経文といって経の字を用いてをり、祖先を崇拝し、子孫を重視すると共に、孤立的であるに反し、キリスト教は祖先を祀らず、夫婦愛を基調とし、隣人愛を本義とし、どこまでも国際的緯の広がりである。・・・どうしても経緯両方が結ばれなければ完全な文化は生まれない筈である。としたらこの経緯両方が結ばれる時こそ問題であるが、驚くべしそれが今日であり、その力の行使こそ本教の使命であって・・・』

[『経と緯』(『文明の創造』P.354)]

という事はメシヤ教こそ「真の大乗宗教」という事が出来る。

 

キリスト教も少し関わっているが主に仏教

『・・・兎に角現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。ところがそれ等善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現れたのが彼の宗教的偉人で、その教えの建前としては物欲を制限し、諦観思想を本位とし、従順を教えると共に、将来に希望を持たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言した・・・』

[『天国建設の順序と悪の追放』(『文明の創造』P.28) ]

 

『・・・此果てしない欲望即ち煩悩を抑えようとして修養する。それが兎も角今日迄人類社会は破滅を免れ得て来たのであるから、大いに感謝すべきである・・・』

[『精神病と癲癇』(『文明の創造』P.291)]

この2項は小乗宗教としての仏教の事で、

 

『・・・もし悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであろう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事が出来ないで、遂には魔の世界となって了い、一切は崩壊するに決まっている。としたら或(あ)る時期までの統制も調節も必要となるので、その役目として生まれたものが宗教であり、その主役を担った者が彼のキリストである・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.347)]

は、キリスト教は大乗宗教と仰られている。

 

『・・・そうして今一つ忘れてならない事は、無神論と有神論である。之も実をいえば経綸上の深い意味のある事であって、それは若しも人類が最初から有神論のみであったとしたら、悪は発生せず闘争も起こらないから、それに満足し立派な平和郷となり、よしんば唯物科学が生まれたとしても発展性はないから、到底天国の要素たる文化的準備は出来なかったに違いない。処が無神的思想が蔓延(はびこ)った結果、形のみを主とする以上、今日見るが如き、絢爛たる物質文化が完成したのであるから、全く深遠なる神の意図でなくて何であろう。・・・愈々悪の発生源である無神論は、最早有害無用の存在となったのである。・・・その場合神業の妨害者は絶対的力によって生存を拒否されるからである。そうして神は無神論者を救う手段として採られたのが、神の実在を認識させる事であって、その方法こそ本教浄霊である・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.348)]

 

『・・・今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了ふのは当然な帰結である。之を一言にしていえば、進化の道程として動物と同様の人類が進化し、犯人半獣であった人間が、即ち外表は人間、内容は獣であった、その獣性を除去して全人間にするのが今や来たらんとする神意の発動であって、それに服従出来ない者が自然淘汰によって滅亡の運命となるのである。・・・滅亡の一歩手前に迄来ている悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくするその救いこそ、神の大愛である事を知らせるのが本教の大神命である・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.352)]

 

以上の事は『・・・大乗よりも一層大乗ともいうべきでもので、勿論前人未踏の説であって、文字や言葉での表現は寔(まこと)に困難である。従って兎も角現代人の頭脳で解し得る程度と共に、神から許されたる枠内だけの事を説くのである・・・』

[『善悪発生とキリスト教』(『文明の創造』P.345)]

というのですから、仏教の人間の教育課程も、キリスト教の大乗宗教を以てしても、結局は完全なる救いとはなり得なかったという事に尽きるのでありましょう。そして、他人事ではなく「真の大乗宗教」とは我々自身が荷なっている「メシヤ様の御教えである」自覚が何より必要でありましょう。

 

同P.338『仏教に於ける大乗小乗』では、『小乗は自力本位(禅宗・日蓮宗)』、『

大乗は他力本位(上記以外の仏教)』との分け方をされていますが、禅宗・日蓮宗は難行苦行のバラモンの出自を高くて狭い故に小乗とされたものであろうと思われます。

 

最後に「主神とメシヤ様」の『真の大乗宗教』には

『・・・斯うみてくると宗教は邪神以上の力を有(も)たねばならない。それでなくては善の勝つ幸福な世にはなり得ないのである。そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲(ここ)に不安なき幸福な世界が実現するのである。併しそれは容易な業ではないが、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。即ち地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割こそ超人的力と知恵とを有する巨人が出なければならない事である・・・』

とあり、その巨人をお出しさせて頂けたのがこの6月15日であった。そして来年の3月3日こそ本格的にお出まし願うのであるから、それに向けて準備を怠らぬようにしなくてはならないと思うのです。ひしひしと身の引き締まる思いがします。

 

以上はごく平凡なと言いますか標準的な仏教の捉え方ですが、種々漁っているうちに、新発見しましたのでご報告したいと思います。それは長年の疑問を解消させるほどのサプライズでした。

『「法」とは「サンズイに去る」だから水を去るで、「火」である』との御教えは、法蔵菩薩とどういう関係にあるのだろうと長年の疑問であったが、自分なりに解釈はしていたのである』(『文明の創造』P.324)

『・・・釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。彼は一時釈尊から離れて他の方面で修業し、業成ってから一日釈尊を訪ねていうには『私は今度印度の西方に一つの聖地を選びて祇園精舎を作り、之を極楽浄土と名付けた。その目的は今後世尊の御教えによって、覚者即ち仏の資格を得たものを寄越して貰いたい。さすれば右の極楽浄土、別名寂光の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境遇にあらしめるであろう』といって約束されたのである。寂光とは寂しい光であるから勿論月の光りである。処が此の法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界に於て一切衆生を救われたのである。つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である・・・』(『文明の創造』P.325)とのある。

私は、「法蔵菩薩は月読尊で、月であって物質的であるのに何故サンズイの水・体(御自分)を去って火で霊的なんだろう」というのが、長年の疑問であった。処がある日、『法』とは条文であって物質ではない、決まり事というのは物質ではない。その物質ではない『法』恰度北島三郎さんではないが、『仁義』の中に『天に一つの日がある様に、この世(物質世界)に道理(法)がなくてはならぬ』で道理を蔵しているからこそ月読尊は阿弥陀如来となられて法蔵菩薩という御名になられたと考えればそれなりに筋は通る。亡くなられて道理という見えない『法』のままに霊界の救いに入られた。」と手前味噌の解釈で居たのですが、次の御教えを見て頂きたい。

 

『信仰について一番肝心な事は、今まで宗教ではあんまり徹底してなかったのです。仏教にしても、仏教の「教」の字が間違っているのです。お釈迦さんが作った時には仏法と言って「法」なのです。それをどう間違えたものか、仏教という「教」になって了ったのです。ですから、佛という字は人偏(にんべん)に弓という字を書いて棒を入れるので、弗(ふつ)という字ですが、弓というのは月の形になるのです。弓をしぼったとき、あるいはしぼらないとき、これは月の形なのです。佛という字は、人間の法なのです。ですから人偏に弓を書いて霊体二本で貫くのです。それが法になる訳です。それで法というのは何かというと、文字の解釈から言うとサンズイに去るというのです。ですから水を去るのです。それで法というのは火で経なのです。ですから法は曲げられないと言います。つまり法はまっすぐでなければならないのです。そこで仏の「法」は月ですから水になる訳です。そうして下の「法」が火になる訳です。ですから水火ですが、これは逆になる訳です。火水が本当だが、つまり夜の世界は水が上になって火が下になる訳で、逆になっている訳です。ですからどこまでも「法」というものが根本になる訳です。それを「教」の字にしてしまったという事は、一つの間違いだったのです。だからだんだん仏教が崩れて来たというのは、これは「法」の力がないからです。それで「法」というのは何かというと、つまり乱れさせない事です。という事は、間違いはさせないという事です。ですから何事にも法があるのです。日常生活にもチャンと法があります。これは前によく言いましたが、人間の行でも言葉でも、小さい法があるのです。ですからそれに合わなければいけないのです。要するに理屈に合う事です。神様の事は理屈に合えば良いのです。ちょっとおかしく思っても、根本が理屈に合っていればそれでよいのです。理屈に合わない点が一つの間違いになる訳です。今話をしたのは再浄化に就ての一つの前提です。再浄化というのは、一旦治ったのが再び悪くなるというのですが、これをよく考えてみると、どんな重難病でも治ったとしますと、今まで寝たきりだったり、何も出来なかったりした人が、普通人の様な行動が出来るのですから、確かに治ったのです。それで再浄化というのは残りの毒素が排除されるための浄化作用ですが、そうすると最初の時よりももっと軽いのは決まってます。処が最初の時よりも重くなって死ぬ事さえあるのは、これは理屈に合いません。ではそれはどういう訳でそうなるかという事を書きました(御論文「『信仰の合理性と再浄化』著述偏11巻P.506」)から、今読ませます。

[『御教え集22号昭和28年5月16』講話篇第10巻P.225]

 

この御論文は再浄化に就ては言い尽くされているといってもいい程のものですが、厚い御神書には『信仰の合理性』という御論文もあって、そこには

『・・・何事も理屈に合っていないから、お陰を頂けないのであるから、中教会長、支部長教師、役員などそれぞれ自己の階級職責等をよく弁(わきま)え不合理に亘らぬよう注意すべきである。これに就ても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いて居れば、如何なる場合でも気が付くものである。

これに就ても大乗小乗との区別を忘れてはならない。一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきでそうすれば何事も順調に行くのである。つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程でもお陰は頂けるもので、少しでも御神業にお邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である・・・』

 

この二つの御論文が菅谷氏が求めた事が全部詰まっている箇所でして、ピンポイントでお示し頂けたものと思えば、実に有り難い事ですし、小乗信仰が白紙となって抜けた意味も判然とご理解頂けたのではなかろうか。

 

これから日の神様がお出ましになられた以上、浄化も激しくなるし、神厳しくなられるとしたら、各自先ず以って襟を正さなければならない時を迎えたという事ではなかろうか。

 

今一度、以下の言葉は、噛み締めて頂き度いと思います。

 

“その人その人に適した浄化であり、浄化は報酬で(有り難いもの)、神様から戴くものであってそれによってその人の魂が目覚めるのだという事を徹底して欲しい。”

“力のある神様だからこそなんだという事を浄化を通して本当に分かる様になっておかないと。”

“他の人が浄化するのは他の人が向上を許される事を指しており、その分向上した人間が増える事なのだから地上天国に近づいている事と捉えて行けるようになって欲しい”

 

以上です。

 

[研鑽資料no.5 学びの骨子 2017(平成29)年8月20日]

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