メシヤ講座・特選集no.173(平成27年6月分)

<御教え>
『文明の創造』宗教篇
善悪発生とキリスト教

(文創  昭和二十七年)

本文は『文明の創造』343ページに記載されています。(『文明の創造』購入方法は「出版案内」を参照ください。また、研鑚資料『文明の創造(三)』では77ページです。)

なお、『善悪発生とキリスト教』は平成27年7月に拝読し学び合う御論文です。今回は『地上天国祭』特集ですが、6月に学び合った『キリスト教』については、HPアップしている各支部の内容を参照していただければ幸いです。

『地上天国祭』特集

≪体験報告≫

精精神障害による地獄から徐々に解放

本部直属・鹿児島 竹裕美

C型肝炎に御守護

岡山支部 胡多恵子

英文サイトのご奉仕を許されて学んだこと

本部直属「光の森出張所」京都支局 H.N

≪挨拶≫
『文明の創造』拝読により『御神業の本筋』の実際面を確認させていただける

メシヤ教代表 楳木和麿

皆さん地上天国祭おめでとうございます。

3月3日に『メシヤ降誕本祝典』記念大祭を箱根強羅で初めて執り行わせていただき、そして5月5日に『本部御神体御奉斎』並びに『新本部竣成』記念大祭を執り行わせていただきまして、3月3日よりいただきましたメシヤ様からの御心を深く受け止めさせていただきました。このことは「メシヤ講座・特選集(no.172)」で紹介させていただいた通りであります。

私達は、メシヤ様が御在世中の最後に『これから御神業の本筋に入っていく』と御教えいただいていることを通して、現実の、この時代に接して行くあり方をお示しくださっている中で、本日こうして地上天国祭を執り行わせていただきました。司会者の方からお話がありましたように『立春祭を期して弥増す御神威は、地上天国祭より現界に移写される』ということですので、それに即した自分作りを一層させていただきたいと思います。

自分作りをさせていただくことにおいて、本日は3名の方から報告をしていただきました。最初に報告をしていただいた竹さんは、最初の原稿が30枚にもなりました。少々多過ぎますので何回も削っていただいて、今日の発表に至った訳であります。報告をお聞きになって削った部分がありますので、前後関係が良く分からなかったところもあるかと思います。

過去のメシヤ講座の中で少しお話をさせていただいたこともありますが、竹さんのご家族は元々鹿児島県の離島に住んでおられたのですが、鹿児島市内に引っ越して生活するようになった時に、元々の竹という姓では生まれてくる子供が鹿児島市内でいじめを受ける可能性があるので、そうしたことを避けるために竹脇という姓に変えて生活を始められたようです。ご両親も非常にご苦労されたようですし、本人のご苦労は・・・この体験記の大半は物心ついた時からの苦労が綴られております。私はこれを読ませていただいて“よくこんなに克明に覚えておられるものだなあ”と思ったことと、“非常に辛い内容であったなあ”と推測いたしました。

この問題はどこから発生しているかは御教えに照らせば一目瞭然で、どのような内容であろうとも先祖が納得いく形でなければ名乗る氏を変えることは出来ない訳なのですけれども、今のこの日本に覆い被さっているものというのは・・・、今月の『キリスト教』という学びでメシヤ講座を既に開いた支部とこれから開く支部でまだ説明していないところもありますが、キリスト教は物質文明の発展を担った訳ですが、物質文明の発展を担って推し進めるとどういうことが起きるかと言いますと、欲望を煽り立てるということで人々の心をそちらの方向へ向けさせます。そうすると、その欲望に対して適う人と適わない人が出てきて、適わない人は心の中に欲求不満を膨らませて行ってしまいます。

そうしたところを仏教は“鎮めのエートス”という機能で以て対応し『夜の時代』をズーッと過ぎて今日を迎えております。その心の中にある欲求不満に加えて、さらに第二次世界大戦に敗れて以降日本の精神構造を壊すために、連合軍が背後で日教組を作って日本人の誇りを失わせる教育を積み重ねて今日を迎えております。

その教育は何が流れているかというと、日本人のほとんどの方々が仏教に所属しておきながら、仏教の一番基本である「平等不平等即平等」という教えを実践はしていないということです。それが竹さんが、竹脇と名前を変えざるを得なかったという最大の理由であります。

それから、胡さんが離婚されても実家の姓に戻していないという理由がそういうところから起きてきます。現代社会はそういうものの中にどっぶり浸かっているがために様々な問題を解決できずにおります。

そこでメシヤ様の御教えに基づいて対処していけば問題解決を許される訳なのですけれども、メシヤ様を教祖と仰ぐ教団で教えを現代に実践するという姿勢が薄れてきているために、中々信者さん方を幸せに導いて行くことが出来づらい、そういう環境を生んでしまっています。

そうしたことが根っこにあるために先祖は悲痛な想いから気付いて欲しいために様々な浄化を起こすのですが、その浄化を浄化として真に受け止めることが出来るように指導していないために、また新たな曇りを発生してしまうということを繰り返してきている訳であります。

「ひとつ気付いてひとつお詫びするとひとつ良くなる」

そうした現状を見た時に、3月3日に『メシヤ降誕本祝典』記念大祭を執り行わせていただいたからには、メシヤ様が執り行おうとされた御神業をなんとか進めさせていただかないといけない、と思っているところです。

そのように思っているところに様々な資料を寄せていただいているのですが、三重支部の濵口さんは、中村市郎先生の御教え研鑽会に重ねて参加されておりましたが、当時学んだ中から大事なことをピックアップして送って下さいました。

信者さん誰にも通ずることは「ひとつ気付いてひとつお詫びするとひとつ良くなる。」とういうことです。これは中村先生が御教えに基づいて実践されてきたことでありますし、信者さん方にそのようにお話されてきた内容だったと思うのですが、これに繋がるのが竹さんの体験記であると思います。

臭いの問題というのは“体の毒素の問題”と東方之光教団は取り次いでいるのですが、実は家庭の中にズーッと蓄積された問題点が自分の中で飽和状態になった時にそういう症状が出る、と話を聞いておりますと解釈できるのです。そうするとその問題の根っこを解決していかない限り、この問題は繰り返し繰り返し行われていくということであります。

ある宗教評論家が「世界救世(きゅうせい)教の問題点をこうした点を当て嵌めて考えていった方が良いのではないでしょうか。」と言って送ってくださった資料があります。それは哲学者の鶴見俊輔という人の哲学論で、氏が初めて昭和21年に“プラグマティズム”の概要を書籍で発表しまして、そしてメシヤ様は昭和23年に“プラグマティズム”を御論文の中で引用されてメシヤ様の示される『宗教観』というものを明らかにされておられます。そのようにメシヤ様が御論文で取り上げているにも拘わらず・・・この鶴見俊輔という方は思想的に相応しくないのでは、という向きもあり、全面的に宗教がこの人の論を取り上げるということは相応しくはありませんが、実はこの方が指摘しているのは“言葉のお守り的使用法”ということです。

敗戦後の日本人の中に「自分たちは騙されて戦争に駆り出された」と言って現在戦争に対して反対している人たちがいらっしゃいます。「騙されて戦争に駆り出された」と言った人がそのまま行くとまた政府に騙されていくのです。“騙された内容は一体何か”ということを追求していかない限り、また騙されていくのだということです。

これが現在世界救世(きゅうせい)教を覆っている現状と全く一緒な訳です。

「上の幹部がやっていることだから下の信者はそれに対してとやかく言う必要はない」と仮に言った場合には、これはズーッと幹部は狂い続けて行くということです。ということと共通している訳です。

御教えに引用された御意図をどのように受け止めるかが分岐点

メシヤ様が御論文の中で“プラグマティズム”を引用されたということは、人間というものは物事をキチッと考えて、そして考えて得た結論を“自分の生活の中で実践して、行動に表して行かないといけない”ということを私達に強く求めているのですけれども、中々それが出来ていないためにメシヤ様が御浄化に入られた時に、メシヤ様の身許に二本木先生という方がお見舞いに出かけた時にメシヤ様が何とおっしゃったかと言いますと、「『私が考えているような教団ではなかった』と述べられた」と言われております。

これはどういうことかと言いますと、メシヤ様の説かれた御教えを真に実践する当時の教会長と言われる方々が、そのように“身を挺して取り組んで行っていたか”ということであります。

メシヤ様が御浄化に入られて、そして『メシヤ』という御神格に上がられたということを皆さんに説いても、政府の方から「信仰の対象は何か」と大草管長が問詰められた時に困って『メシヤ』という御名を『明主』という御名に戻してしまった。という経緯がありますけれども、これは『皆んなが困っているようであれば困らないようにしなければならない』というメシヤ様の御心でもありましょうが、しかし弟子達がそれを背負い切ることが出来なかったということでもあります。

(この出来事は、三千年前に伊都能売神皇様が日本人の生命の危機を回避されて、皇位を天照天皇にお譲りになってインドへ降られたことと重ね合わせられる面があります。心痛む内容です。)

ですから、私達がこれから取り組ませていただくことというのは、神界で見守ってくださっているメシヤ様の、その御心を真に求めて、メシヤ様が進められようとされた御神業を担わせていただくということであります。今日お集まりの方々の気持ちがそこに共通して、さらに強まって継続していくということを願うところであります。

その御教えを実践することによって竹さんは・・・ 本当は竹さんには5月5日に報告していただこうと思っていました。それは御守護報告にもあったように職業訓練や保育園などの様々な場所で話をしても「恐怖心がほぼ取れました」という話をいただいたので、「それではちょうど良いので5月5日に発表をしていただきましょう」と思って話し合ったのですが、その時にまた緊張感が高まって同じような症状が出てしまいました。それで“これは早まってはいけない”ということで「報告できる時期が来るまでもう少し先延ばしにしましょう」となっていました。それで5月の終わりになって「御守護報告が書けるような気持ちになりました」とのことでしたので、今回報告していただきました。

書いていただきましたら膨大な量になったのですが、膨大な量になったということはその辛さが克明に自分の中に刻まれているということであります。

具体的な問題解決法を示さずに慰霊の形のみに・・・これを改めねば

そして、ご両親共々東方之光教団に所属していながら、具体的な竹さんの家の問題点を解決する手立てを打つことなく紫微宮を祀らせている、ということが最大の問題である訳です。東方之光教団の最大の問題はさっきの鶴見理論からいけば“言葉のお守り的使用法”を使って「今の経綸」という言葉ですべてを納得させながら“薬を使用しながら浄霊をする”ということに取り組んでいるということです。

戦争によって日本人がキチッと反省しておかなければいけないことを反省しないまま現代を迎えているために起きている日本人の癖をそのまま東方之光教団は続けて、また使っているということであります。この現状に気付くことができなければ“メシヤ様の御心に叶う教団になり得えない”と言えるのではないでしょうか。

それから胡さんが報告していただいたC型肝炎において、インターフェロンを使用するということについては、現代では自分の体の中からインターフェロンが出るということは医学的にもわかっていることなのです。ですから医学的にはわかっていることなので、そこに浄霊をしていけば、さらにインターフェロンを出して“自分の病原に対処することができる”ということは容易に想像できる訳なのですが、最先端の学びをいづのめ教団の専従者がしていないために、メシヤ様がお説きになられたことを“更に実践していく”という、そういう教団にはなり得ないということであります。なんとかお知り合いの方々にはそういったことを伝えて行っていただきたいと思います。

しかも、胡さんから「樹木葬を申し込んでしまった」ということを聞いた時に「いずのめ教団は何を教えていたのか」と、あるいは「勉強してきたのか」ということを考えてみますと、(本来の宗教の役割を果たせない)恐ろしいような教団になってしまっているということです。

その点Tさんご夫婦が5月5日に発表してくださったのですが、このご夫婦は近くに樹木葬の公園が出来ることに近隣の住民共々反対をして遂に樹木葬の公園を造らせないという結論を出させました。こういう取り組みをされている方もあれば、折角メシヤ様の御教えと御縁をいただいているにもかかわらず、樹木葬を申し込んでしまうような信者さんにしてしまっている、という、この点を胡さんには体験に基づきまして赤裸々に発表していただきました。私達の大きな学びにしておいていただきたいと思います。

そして最後に、H.Nさんが発表していただいたのですが、主之光教団は昨日東方之光教団の信者さん方に御下付している『大光明』という御神体を主之光教団の本部に御奉斎をしたようであります。教団護持委員会から主之光教団に変わった時に『五六七大神』という御神体に変更した時も私は賛成ではありませんでしたが、信者さん方に意義を説いて御奉斎させてしまいましたので、それをまた『大光明』にするということは“どういうことかなあ”と思うのですが、残念ながらそのような形に進んで行っております。

『メシヤ様に直に太く繋がることで恩恵に浴する』をもっと広げるために

主之光教団は、今日H.Nさんが学んだという中村総長の「所信表明」によって出来た集団でありますので、この所信表明に沿った教団作りをしていかない限り、世界救世(きゅうせい)教の教団改革というものは担うことは出来ないのですが、ほとんどの人がそれを忘れているか、その当時のことを知らない人達が専従者となっているためか、だんだんその意義が重要視されない状態になっているようであります。

しかも、東方之光教団は“あの御神体は包括の御神体なので自分達はタッチをしない”ということで、四代様御自らお巻き上げをして印刷所に持って行って原版をお作りになって、また御奉斎をされたようであります。「東方之光教団の御神体ではない」と言いながら信者さんに御神体を御奉斎するように指導している訳ですから、この指導姿勢はどうなっているのかさっぱりわからない状態になっているのです。

(また、主之光教団本部に御奉斎することにより引首印が「光明」であることも判明しました。そのことから、東方之光教団の県の中心施設御奉斎の御神体も確認しましたら、こちらの引首印も「大光明」ではありませんでした。これでは、その御働きに対する認識が御教えに照らしても教学的見地からも不明であるとしか思えない状況です。)

本日、三教団について名を連ねてわざわざ言ったのは、私達が3月3日に『メシヤ降誕本祝典』記念大祭を執り行わせていただいて、これから毎年毎年この大祭を積み重ねながら『御神業の本筋に入っているのだ』という御教えを実際の形で進めていく、そういう取り組みをして行くために敢えてこのような話を致しました。そうしなければ、折角神界からメシヤ様が降りてこられて私達に『人を救う力と方法』を授けてくださったにも拘わらず、その恩恵に浴することが出来る人達がまだまだ少ない状態を打破することは出来ません。恩恵に浴することが出来る人を“一人でも多く作らせていただきたい”という想いからこのような話をしてしまいました。

今、幸い「英文サイト」などのお蔭で海外で正式な拠点が出来ていますのは・・・、マレーシアで深川さんが努力をしてくださって、これからサイトも立ち上げて一層御神業を広めようと動いてくださっております。夏ぐらいにはフランスにも拠点が出来て『浄霊力拝受』のお世話が出来るようになっていくのではないかな、と思います。

その人達をはじめとしてインド、コンゴ、ドイツ、イギリス、スイス、中国、カナダ、メキシコ、アメリカと少しずつメシヤ様に直に繋(つな)がって、そして、その霊線を太めて行くことを通して浄霊の力を発揮させていただきたいという人が増えております。そうした方々をお世話する体制を光の森出張所とその中の京都支局によってお世話をして行きたい、と考えておりますので、これからより一層皆様方の誠の信仰と尽力によって御神業が推進することができるように、今日の佳き大祭の中でお願いを申し上げて、私の挨拶とさせていただきたいと思います。

本日は、地上天国祭の参拝を皆様方と共々に執り行うことが出来ましたことを心から感謝申し上げまして挨拶とさせていただきます。ありがとうございました。

御教え『プラグマチズム』
(昭和二十四年一月二十五日)私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説の中、最も心を引かれたのは彼の有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。先づ日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェームズによれば、唯だ哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。宜しく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的で米国の哲学者らしい処が面白いと思う。私は之に共鳴して、其当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織込むべく努めたものであった。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。私は其後宗教を信ずるに至って、此哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった、即ち宗教行為主義である。宗教を凡てに採入れる事によって如何に大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、斯ういう事が考えられる。先づ政治家であれば第一不正を行はない、利己のない真に民衆の為の政治を行うから民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く、実業家にあっては誠意を以て事業経営に当るから信用が厚く、愛を以て部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を遂げる。教育家は確固たる信念を以て教育に当るから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい。官吏や会社員は信仰心がある以上立派な成績が挙り、地位は向上する。芸術家はその作品に高い香りと霊感的力を発揮し、世人によき感化を与える。芸能家は信仰が中心にあるから品位あり、観客は高い情操を養ひ、良き感化を受ける、といっても固苦しい教科書的ではない、私のいうのは大いに笑わせ、大いに愉快にし、興味満点でなくてはならない。其他如何なる職業や境遇にある人と雖も、宗教を行為に表わす事によってその人の運命を良くし、社会に貢献する処大であるかは想像に難からない。茲で私は注意したい事がある。それは宗教行為主義を実行の場合、味噌の味噌臭きはいけないと同様に宗教信者の宗教臭きは顰蹙に価する。特に熱心な信者にして然りである。世間よく信仰を鼻の先へブラ下げてゐるような人がある。之を第三者から見る時一種の不快を感ずるものであるから、理想的にいえば、些かの宗教臭さもなく普通人と少しも変らない、唯だその言行が実に立派で、親切で、人に好感を与えるというようでなければならない。一口にいえばアク抜けのした信仰でありたい、泥臭い信仰ではいけない。世間或る種の信者などは熱心のあまり精神病者かと疑わるる程の者さえあるが、此の種の信者に限って極端に主観的で家庭を暗くし、隣人の迷惑など一向意に介しないという訳で、世人からその宗教を疑わるる結果となるが、之等は指導者に責任があり大いに注意すべきであると思う。(文字起こし御用を担った濵口三重支部支部長代理が『岡田茂吉全集』から引用。そのため昭和23年9月5日発表とする資料とは日付が異なります。)
【宗教評論家からの資料】

哲学者、鶴見俊輔の論文『言葉のお守り的使用法』について

鶴見俊輔は、1922年生まれ、現在93歳。16歳でハーヴァード大学入学、当時ハーヴァード大学講師の都留重人からプラグマティズムを学ぶ事を勧められる。飛び級して19歳でハーヴァード卒業。日本に初めてプラグマティズムを紹介した哲学者。以下は鶴見俊輔の論文からの抜粋です。

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言葉のお守り的使用法とは、擬似主張的使用法の一種であり、意味がよく分からずに言葉を使う習慣のひとつである。

軍隊、学校、公共団体に於ける挨拶や、訓示の中には必ずこれらの言葉が入っている。

「鬼畜米英」「八紘一宇」「国体」等がお守り言葉にあたる。

大量のお守り言葉を国民に向かって繰り返し、国のやり方を正当化して国民を異常な行動に導く。

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上記が鶴見俊輔の論文の一節です。この論文を見た時、東方之光教団の出す「御経綸」とリンクしてしまいました。

⇒教団はお守り言葉を使い、教団の企画を「御経綸」とすり替えて正当化し、正しいメシヤ様の教えを伝えていない。

教団は、型と順序、個と家の完成、万人の医療者、三大事業、転換と向上、本筋の御神業、まちづくり等の大量のお守り言葉を信者に向かって繰り返し、教団のやり方を正当化して信者を異常な行動へと導いている。

これは、戦争中の大本営のやり方と共通しているように感じてならない。(中略)引き続き論文の抜粋です。

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人々がこのお守り言葉から解き放たれる為には、毎日使い慣れたわかりやすい言葉で語る事が大切である。

人民は日露戦争以後ずっと黙っていた。中国に対する侵略も支持していた・・・そして結局負けた。この時一体何を記憶していたのか?それが問題。アメリカに負けて、一体どういうふうに、人民の記憶に残っているのか?それを知るのが「生きた」歴史を学ぶという事。

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⇒昭和25年の御法難から始まり、その後の一元化紛争、昭和58年の教団浄化を知る専従者、信者にも同じような事が当てはまると思います。これらの事件当時の専従者や、信者はそれぞれの立場で一体何を記憶していたのか?

それを正確に知った上でなければ改革はできないと思います。

現在40代の専従者(41歳~49歳)は、32年前の教団浄化が起きた昭和58年当時は、8歳から17歳でした。その親の世代(現在60~70代)も子育ての真っ最中で教団浄化の事を正しく理解している方は皆無に等しいのが実際のところです。今日の専従者は、一連の過去の教団が起こした事件について何も知りません。又知ろうともしません。過去の教団紛争についてこの年代(現在40代の)専従者に聞いても、「そんな事はどうでもいい!」という言葉が返ってきます。これは山田先生の徹底したご指導の賜物なのでしょうか?(苦笑)

教団紛争の当事者である現教団執行部に飼い慣らされた過去を知らない専従者が改革を訴えたところで、一体何を改革するつもりなのでしょうか?何も知らない専従者が改革なんかできるはずありません。というか、「改革」もお守り言葉にされてしまい、「改革」という言葉を繰り返すことで信者が過去の教団の過ちから目をそらすよう仕向けているのかとも見えます。

映画監督伊丹万作(1900年1月2日~1946年9月21日没・伊丹十三の父で、大江健三郎の義父)は先の戦争について以下のような言葉を残しています。

『多くの人が今度の戦争で騙されたという。しかし、いくら騙す者がいても誰一人騙される者がいなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかったに違いないのである。

「騙されていた」と言って平気でいられる国民ならおそらく今後も何度でも騙されるだろう。

いや、現在でも既に別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。』

この言葉も鋭いものがあります。

昭和25年の御法難を知る方は少なくなりましたが、一元化紛争、教団浄化を経て今日も信者を続けていられる方は沢山いらっしゃいます。

そのような信者の方全てに当てはまるとは言えないかもしれないですが、当時を知らない私からすれば、上記の言葉は現在まで信者であり続ける多数の人々に当てはまるように思います。この言葉を初めて知った時、これは教団信者の事を言っているのかと思った程です。

MOAの専従者や信者を見ていて思うことは、「経綸」という言葉で自分の行動を正当化する癖がついているように見えます。これは『夜の時代』に身に付いた癖の上に、教団によって新たに付けられた癖のように思います。

「経綸」という言葉だけなら、教団のウソを見抜いて離れていく信者もいますが、何十年も信仰していて、不慮の事故や、突然死、長期間に渡る精神浄化、莫大な金額の金銭浄化等が起きても、「全てこれは明主様がされている。だから正しい。」と言われたら、その言葉で全てが正当化されてしまい、ウソに引っかかってしまっていると気づかない純粋な信者がいるのが現状です。(中略)

先の戦争についての過去の資料を集めて分析していく作業を通して気付いた事は、『歴史は繰り返す。』という言葉の重みを今ほど強く感じた事はありません。

メシヤ様は、御講話の中でも世界情勢に関して、

『われわれとしては大いに関心を持たねばならぬ。観音運動は病貧争をなくすんだと言って暢気に仙人然としていてはいけない。』(昭和10年8月21日 御講話)

『世界の情勢ですが、これは非常に関心を持たねばなりません…』(昭和10年12月11日 御講話)

と満州事変以降、日本が戦争へと暴走を始めていた時代に世界情勢や社会の動きに関心を持つようにと話されています。

最近の東方之光のご面会では、統合医療とまちづくりの話題ばかりで、理事長は国内外で起きている自然災害や紛争について全く話をされないのは違和感を感じますが、これに対し東方之光信者は一体何を考え、何を思って理事長のお話を聞いているのでしょうか?

大半の信者が、山田先生のご指導の通り「そんなことはどうでもいい。我々はメシヤたる明主様の元で世界経綸の中心にいる! 世界人類を救うのは我々東方之光なのだ!」などと本気で思っていられるとしたら、これは悲劇なのか、喜劇なのか?

ある信者の方に「時代に取り残されているのでは?」と警告を試みた事がありますが、こちらの話を全く理解していただけませんでした 。そして「そんなことはどうでもいい!」という言葉が返って来ました。(後略)