メシヤ講座・特選集no.132(平成24年1月分)

<御教え>

『文明の創造』科学篇
肺炎と結核

(文創  昭和二十七年)

寒冒と最も密接な関係ある病気としては、言う迄もなく肺炎と結核であらう。特に現在日本に於て、最も悩みとされてゐるものは之であるから、充分解説する必要があらう。抑々(そもそも)肺炎と結核といふ病気の初因は、勿論(もちろん)寒冒からである。といふのは前項に述べた如く、折角寒冒といふ浄化作用が発生するや、医療は極力停止させやうとして、種々の手段を行ふ。之も既に述べた通りであるが、其(そ)の中の最も不可であるのは、 薬剤と氷冷である。元来薬剤とは如何いかなるものであるかといふと悉(ことごと)く毒物である。にも拘(かか)はらず何故なぜ毒物を薬剤として用ひるやうになったかといふと、今迄に説いた如く、浄化作用停止に最も効果があるからである。

茲(ここ)で、浄化作用なるものの本質を説いてみるが、曩(さき)に述べた如く、体内の毒素を排除すべく、生れながらに保有してゐる自然良能力である。従って此この力の強弱によって、浄化力にも強弱が出来る。何よりも結核が青少年に多いといふ事は、浄化力が旺盛であるからで、壮年から老年に及ぶに随したがひ、減少するのも其(そ)の理由であり、又各種の伝染病が、青少年や小児に多いのも同様の理である。そこで病気即ち浄化発生の場合、医学は浄化を極力止めやうとする、それには何よりも体力を弱らせる事である。其(そ)の唯一の方法として考へられたのが、毒物を体内に入れる事で、それによって体力が弱るから、浄化も弱り、病気症状も軽減するといふ訳である。

又氷冷は何故なぜ不可かといふと、毒素を溶解すべき熱を冷すから浄化が弱り、元通り固(かた)まり、それだけ苦痛も減る事となる。勿論(もちろん)、湿布も同様であって、只些(ただいささ)か異ちがう点は、人体は不断に皮膚の毛細管からも呼吸してゐるのでそれを窒息させるから、其(そ)の部の浄化は停止し、症状は緩和されるのである。特に近来注射が流行するが、之も毒分の強い薬は、服のんでは中毒の危険があるから、皮膚から注入するのである。

寒冒に罹かかった場合、右の如く薬毒や其(そ)の他の方法で、浄化停止を行ふ以上、保有毒素 の幾分は減るが、大部分は残存し、再び固(かた)まって了(しま)ふと共に、新しい薬毒も追加されるので、寒冒に罹かかる毎(ごと)に毒素は累加し、或(ある)程度に達するや、一時に浄化活動が起る。 それが彼(か)の肺炎で前項に説いた借金の理である。何よりも肺炎の特異性は、喀痰(かくたん)が肺臓内に多量に溜る事で、其(そ)の為(ため)喘音(ぜんおん)が甚だしいのである。喘音(ぜんおん)とは呼吸の度に肺胞が動くにつれての喀痰(かくたん)の響きである。又呼吸困難は喀痰(かくたん)多量の為ため、肺臓内の容積が縮小するから必要量の空気を吸ふには、頻繁(ひんぱん)に呼吸しなければならないからである。此(こ)の理によって肺炎の場合、何等の療法もせず、自然にしておけば痰(たん)は出るだけ出て順調に治るのである。処が医療は凡(あら)ゆる手段によって浄化を停止させやうとする。何よりも肺炎に対しては医療は特に強い薬を用ひる。それは毒が強いからで、浄化停止に強力だからである。そんな訳で強い浄化と強い浄化停止とで、猛烈な摩擦が生じ、非常な苦痛が伴ふ。其(そ)の為ため食欲減退、高熱による体力消耗等と相俟って、衰弱死に到るのであるから、医学の誤謬(ごびゅう)たるや言うべき言葉を知らないのである。

右の如く肺炎は強烈な浄化である事は体力が旺盛であるからで、体力の弱ってる人は浄化が緩慢(かんまん)に発おこる、それが結核である。そうして医師が初めての患者を診断する場合、種々な方法の中、今日最も決定的とされてゐるものはレントゲン写真である。之は肺臓内の雲翳(うんえい)又は空洞が写るからで、之をみて結核と断定するが、医学は之は何が原因であるかを知らない。そこで其(そ)の原因をかいてみるが、寒冒の説明にもある通り、 最初液体となった毒素が、一旦肺臓内に侵入停滞した時、極力浄化停止を行ふ結果、 喀痰(かくたん)は排泄されず、肺臓内に残存して了(しま)ひ、日を経(へ)るに従って固結となる。それが雲翳(うんえい)であってみれば、之は全く人為的所産と言えよう。故に最初の液体侵入の際は、肺臓は何等異状はないのである。そうして固痰(たん)の位置が比較的上部の場合は、肺炎カタル又は肺門淋巴腺といふのである。それと似たものに肺浸潤がある。之は軽微な肋膜炎又は肋骨附近に溜結せる毒素が浄化溶解し肺臓内に浸潤吐痰(たん)とならうとするので、 此この場合も医療は固(かた)めやうとするから容易に治らないので、何いずれも放任しておけば、順調に治癒するのである。

そうして一度結核と断定するや、寒冒と同様医療は極力浄化停止を行ふが、それに最も効果ありとされてゐるのが、近来熱心に推奨されてゐる彼かの安静法である。処が此(こ)の安静法が曲物くせものである。何となれば仮(か)りに健康者が一ヶ月も安静にすれば、運動不足で食欲は減退し、体力は減り、外出しない為顔色は悪くなり、目に見えて衰弱し、一寸(ちょっと)動いても息切れをするやうになるので、言はんや病人に於てをやである。尚其(なおそ)の上薬毒 を入れられ栄養と称して動物性蛋白を多く摂(と)らせるが、右は悉(ことごと)く衰弱を増させる方法であるから、結核患者ならずとも衰弱するに決ってゐる。

此(こ)の様に衰弱法を行ふ結果、予期通り浄化力は極度に減退し、症状は減り遂に無熱となり咳も吐痰(たん)も無くなるので、之で恢復(かいふく)したと思って喜ぶが、何ぞ知らん実は浄化以前の状態に還元させたままで、而(しか)も反(かえっ)て薬毒は増し、体力は弱り、消極的小康を得た迄で、真に治ったのではないから、何かの機会に触れるや、俄然悪化し重態に陥り、遂に死に至る事が往々ある。斯(こ)ういう経路は医家もよく経験する処であらう。故に医学では決して治るとは言はない。固(かた)めるといふにみても明かである。又経過中に 患者が偶々(たまたま)少し運動でもすると直に発熱する。すると医師は周章(あわて)て戒めるが、之は運動によって鎮静してゐた浄化が頭を擡もたげるからで、本当はいいのである。よく長い間掛って漸く治ったと曰いはれ、ヤレ安心と普通の生活を始めるや、間もなく再発元の木阿彌(もくあみ)となる事もよくあるが、之等も何年掛りで漸く固(か)ためた毒素が、俄(にわ)かに溶け始めた為である。以上によって明かな如く、今日の医療が如何(いか)に誤ってゐるかで、忌憚(きたん)なく言へば医療が結核を増やしてゐると言っても過言ではなからう。

茲ここで、結核菌に就ついて大いに注意したい事がある。医学では結核菌は、伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。前述の如く最初喀痰(かくたん)が肺臓内に侵入するや、医療は固かためて出なくするので時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。之が結核菌である。そうなった痰(たん)は悪臭があり、粘着力が強いものである。考へてもみるがいい。如何なる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微生物が湧くのは物質の原則である。ましてや体温といふ好条件も手伝ふからである。 之によってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰(かくたん)が滞溜した時、極力出して了しまえばそれで済んで了しまふ。それを一生懸命出さないやうにして腐敗させ、菌迄湧かせ、菌の蚕食(さんしょく)によって空洞さへ作るのであるから、結果から言えば善意の加害的行為とも言へるであらう。此(こ)の理に目醒めない限り、今後如何いかに多くの犠牲者が出るか測り知れないものがあらう。

 

≪解説≫
因縁使命に基づいて
メシヤ様の御神業にお使いいただく道を得る『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

「新潟出張所」発会から『因縁使命』の深奥さを学ぶ

1月度は、岡山支部での「新年祭並びに一月度月次祭」「メシヤ講座」を皮切りに、各地で昨年通りの順で行事を執り行なわせていただきました。そして、関東まで移動した後、群馬から雪氷3mの関越道を抜け新潟へ入り「新潟出張所」発会式を執り行なうことが許されました。慶祝に包まれる中で、新年の御神業幕開けをさせていただきましたことに、心からメシヤ様に感謝申し上げました。

新潟出張所は枚方支部に帰属することから、枚方支部より5名の関わりある方々が奉仕に出向してくださいました。御神縁のきっかけになった平田かよ子さんが司会を務め、厳かに発会式が執り行われました。出張所責任者の挨拶の中に記述された次の内容が御神縁の源です。


然しながらネット検索の結果、妙理神は菊理媛の尊であり、その本体は十一面観音様であるという事が分り、『十一面観音様は御経綸の進展によって千手観音様になられ、千手観音様は桃太郎の事で、桃太郎は私である』との御教えから行けばほとんどメシヤ様直接的救済の御用にお使い頂いている事になる訳で(然し乍ら此事は妙理神においてメシヤ様は中心にあって指示を出されるという事からすれば桃太郎の更に奥の主神の表現神たる天照皇大神様ということが判る)、其事を掲示板に出したら大阪のある御婦人とのご縁が出来て、その縁でメシヤ教との縁が繋がったわけで、どうみても霊界通信・妙理神のお引き合わせとしか言いようがなく、その御婦人曰く「メシヤ教のお力は凄いものですよ」という事になったのでした。そこでそういうものなら何時までもはっきりさせないわけには行かなくなり、私としてもそれが御神意ならそれに従うしか他にないと肚をくくる事にしたのです。

 

「大阪のある御婦人」が平田さんでした。しかも松原会場の「メシヤ講座」に出席するようになったきっかけが「新潟出張所」責任者の庭山光太郎さんです。下記の平田さんの体験記中の一節に出てくる「知人」が庭山さんなのです。

 

そんな矢先、今年の6月末、知人を通して木原さんとご縁をいただきました。木原さんからメシヤ教のお話しを色々お伺いして、特に『メシヤ様』の御尊称と『明主様』の御尊称と、それぞれ言霊と御働きに違いがあるということに大変な興味を覚えました。百聞は一見に如かずと思い、木原さんから御浄霊をいただきましたが、〇〇〇協会の先生と比べると圧倒的な浄霊力の違いがよく分かりました。昔から「言霊神也り」と申しますが、この時こそ初めて確かな手応えを感じ、メシヤ教とは・・どういう団体なのだろうかと益々興味を覚えました。

7月8日、松原勉強会に参加させていただき入会をお許し賜りました。前日の晩、代表先生とは一度もお会いしたことはございませんが、この御方は普通とは何かが違うと強く思わされ、不思議な感じがいたしました。そして、入会したその日の帰り、思ってもみない現象が有りました。この内容は『一銭の大神示』と関係しておりますので他に譲ることにいたしますが、何とも・・計り知れない奥の仕組の深さを感じました。

また、両者を引き合わせた内容についても幾つもの問い合わせをいただきましたが、メシヤ様の下に御神業を推進する神々の組織が創られており、その御一柱の『妙理神』の御系統の御神業を説明しているのです。しかしながら、枚方支部ブログ中の「慶祝 新潟出張所発会」に記述されているように具体的な救いを展開しなくてはなりません。これから、共に学びを重ね実践に移してゆきたいと願っております。メシヤ様は『宗教行為主義』を提唱されていますので、神界のことが理解できた分、御力をいただきつつ具体的な救済行為に取り組むことが本来の道です。

それと共に、メシヤ教は、メシヤ様が進められようとする本来の御神業を目指していますので、私達の霊性が向上すれば霊統の方々と御縁が浮き出てくる、ということも皆さんに自覚していただきたいと願っております。

不思議な縁はさらに続きます。庭山さんの挨拶に出てくる

 そこで当会も御守り様無しで御互いに御浄霊をお取次ぎし、御霊紙も大変よく効き目があるわけですから神様のお力は充分戴いている訳で、何の不足もないのですが、ただメシヤ教の御神体様が丸にチョンで(○ゝ=ス=主之大御神)、メシヤ明主様の御直筆なのです。メシヤ明主様は御在世中に「大光明如来」と書いて「みろくおおみかみ」と唱えさせておられたわけですが、どこまでも如来というのは仏教名になりますから、昼の世界の御神体にはそぐわないと言う事もあると思います。遂に何々の神という御神体をお書きになられる前に御昇天になられたのです。それを楳木先生は手に入れられて御神体とされたわけです。私はメシヤ明主様がこんな○ゝの御書体があるなど露も知りませんでしたから、メシヤ教の鎌倉支部で初めてお目にかかった時に、昼の世界の御神体として用意されてたのだなあと思わずには居られませんでした。この○ゝのゝこそ文明の創造書の257ページ「神様と私との関係」の中で

『ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際(御法難時)留置所の中で、すこぶる神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴の○○○○○(ミクラタナ)の神様であって、出所早々散花結実の書を千枚書いて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである』

この中に出てくる鎌倉支部責任者の菅谷敬さんは、メシヤ教に御縁が繋がる前に庭山さんから御教えに関する資料を送っていただいたことがあるのです。こちらも不思議な繋がりです。

こうしたことを振り返った時に、因縁に繋がる人々が時節を経てメシヤ様の進められようとした本来の御神業の下へ集合しているように思わされますので、特記しておきます。

「大阪支部」移転開所

1月度は、新潟から山陰へ移動し、通常の広島支部までの行事を終了した後、再度大阪へ向けて移動しました。「枚方支部」が手狭になったために移転し「大阪支部」として新たな歩みを始めることになったからです。

「枚方支部」動座祭を執り行ない、「大阪支部」遷座祭を執り行なわせていただきました。すでに「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」で紹介した通りです。

これにより「大阪支部新潟出張所」「大阪支部正和出張所」として、それぞれ新たな御神業推進に取り組ませていただくことになりました。昨年12月の「大阪支部正和出張所」発会式でも、責任者挨拶の中で「ある方」と紹介された因縁の深い方が司会を務めました。「大阪支部遷座祭」では、難病から救われた平尾美幸さんが司会の御用を担いました。かつて難病であったことを忘れさせるような力のある声で、『救われた命を私用に使ってはいけない』という思いが漲っていました。

こうした一連の動きの中で、『因縁の人が因縁の人を導く』という内容や『因縁使命に基づく御神業を許される』という実像を目の当たりにした思いになりました。

大阪支部での行事が年末年始に重なりましたが、そこでお取り次ぎした内容というのは、東方之光教団は世界救世(きゅうせい)教と改称してからの縮図のようなものですので、御昇天後の問題点とそれを克服することに取り組んできた私の経緯を随分と話すこととなりました。

これは、1月度の各支部、各会場「メシヤ講座」で学んだことと共通する内容のところも幾分あります。

『岡田茂吉研究』が何時始まるのか、という疑問に集約される

1月度最後の「メシヤ講座」は札幌支部で執り行なわれました。ここでは、昨年の「伊都能売観音様」入仏記念式典以来の全国の動きをお話しながら、「決心」というテーマで課題提起をいたしました。

世界救世(きゅうせい)教と改称してからの問題点は、昭和元年の御啓示と昭和6年6月15日の鋸山での御神事に関わる説明内容です。「メシヤ講座」では、『夜昼転換』の御啓示は昭和元年にあったとする説明をしました。この内容は過去幾度かお話してまいりましたが、既に他界した元同僚たち(かつて教団改革を志した仲間)と検証したことでもあります。

メシヤ様の御性格から拝察すると、過現未の御啓示に基づく救世主の大任の御神命をすぐにはお受けならなかったに違いありません。大本教時代に培われた霊的知識を以ってすれば、徹底した御検証を重ねられたに違いない、と拝察できるからです。そして、確証を持たれ救世主の大任をお受けする御決意を固められたからこそ、鋸山で執り行われる御神事に臨む御指示が降ったのです。

そのことを鑑みれば、一人の男性の並々ならぬ御決意により『夜昼転換』がなされたことになります。この御決意を、私達は深く受け止めねばなりません。所属教団上層部の腐敗を憂う者こそ、そして教団改革を願う者、本来の御神業推進を願う者こそ、御決意というものを見つめねばなりません。そして、その後を歩まねばなりません。

そうしなければ、「『岡田茂吉研究』が今に始まると言われてきましたが、何時始まるのでしょうか?」という質問を繰り返すことになってしまいます。

メシヤ様を教祖と仰ぐ信徒がまず『研究』を始めて、御肉体を持たれておられた時のメシヤ様の生き様を知ることを求め、宗教家としてだけではなく、芸術面で到達された御境地などを拝察し続けなければ、時期は来ません。教団紛争でさえも「今に明主様(メシヤ様)が何とかしてくださるに違いない」「今に明主様(メシヤ様)が大鉈(おおなた)を振るってくださるに違いない」という、悠長なことを言って、決心をこまねいてきたところがあるからです。「今に」と言い続けて20年はゆうに経っています。最新の情報では、東方之光教団は信者が激減し数万台に落ち込んでいるということですが、その内容が何を意味するかは容易に理解できると思います。

メシヤ様が進められようとした本来の御神業が急務な理由

その象徴的な情報が大阪支部から届き、その内容に驚愕いたしました。

 

代表先生様以下、MOAから〇〇さんに来た節分の豆販促メールです。

私はよく意味を伝えましたが、結局、同じ食うなら自然の豆がいいので、ということで信者にも毎年感謝祭などで宣伝してきました。

>こんにちは☆゜.:。+゜
>MOA自然食生活クラブです。
>お待たせいたしました!
>
>★ 〇〇〇〇様限定 ★
>
>☆  お 野 菜  ☆
>★ 2割引クーポン ★
>
>★ 2/2(木)~4(土) ★
>
>※お買い物時に店頭で携帯画面をご提示ください。
>※PCで登録された方は、印刷してお持ちください。
>
>≪おすすめ情報≫
>
>2月3日は節分の日です。
>
>「節分」は本来、季節の移り変わる時の意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。特に立春が1年の初めと考えられることから次第に、「節分」といえば春の節分を指すものとなりました。立春を新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて、追儺(ついな)の行事が行われていたわけで、その一つが「豆まき」です。
>
>豆まきに欠かせない・・・
>
>【煎り大豆】を販売しております!!
>一袋 216円です。
>たいへん貴重な大豆ですよ~♪
>拾って食べてください(^u^)
>お問い合わせは

ここで驚かされるのは、節分の意味について「本来」と銘打って記述している内容です。これは御教えの全面否定を意味しています。メシヤ教の信者さんはこのメールに噴出したことでしょう。

これまでの経緯は報告の通り、“節分の豆撒きは社会の風習となっているので、どうせするならば良い豆を使った方が良い”という考えだそうですが、御神業の根幹部分として、節分祭、立春祭の意義を判らずば地上天国建設はあり得ないに拘らず、このような認識であることが不思議でならないところです。

そして、地上天国とは、どのようにして建設するのか、と考えた時に『文明の創造』に対する学びと深い認識が不可欠となります

それは、『夜の時代』の癖を払拭するための鑑となることがびっしりと鏤(ちりば)められているからです。一例を挙げれば、10月では『独断的観念』『頑な偏見』という御指摘で、1月は『最も自然に合理的に行はれる』という御言葉で、『夜の時代』に受けた精神の癖を知る上で深い示唆をいただきました。こうした意識付けの積み重ねでなければ自己変革は難しい面があるのです。

自己変革の指標として、メシヤ様は『偽は真に、邪は正に、仮は実に、争は和に、醜は美にというように、一切の革新、一切の統合である』と述べられています。そのことを以ってすれば、“社会性”という美名の下に社会迎合を重ねるようでは地上天国建設のために役立つことはありません。

「安心感と希望を持つことができた」と異口同音に

それ故にメシヤ様が進められようとされた本来の御神業に立ち戻らねば大変なことになってしまいます。しかし、本来の御神業に立ち上がられた誰もが過去の所属教団を愛してやまぬ思いをお持ちです。だからこそ、批判も加えるのです。

ところが、批判は批判で終わり虚しさが募ります。そして、やがて変わらぬ教団に絶望して、「教団が御教えに反した取り組みを進めても、自分たちが悪いことをせずにいれば良い」という気持ちになり、半ば諦めの境地になります。

そうした中にあっても御縁が生まれ、本来の御神業推進と銘打って立ち上がると、「方向性がハッキリした」ということになり、「安心感と希望を持つことができた」と異口同音に語っていただくことになれるのです。皆さん心底明るい方向へ変わってくださっています。この度、札幌支部で執り行った「メシヤ講座」で次のようなお礼メールが届きました。

 

札幌支部では大変お世話になりました。思いがけず『夕拝』を北川さんと共にさせて頂く中で、思いがけず『浄霊』も頂け、しかもタップリ時間を掛けて下さりました。“愛情をかけて下さっているんだなぁ…”と思え、言葉に表わせぬ感動を覚えました。御教え拝読時、私は漠然と頭を上げて聴いていました処、代表の御姿は、只ひたすら頭を下げて“メシヤ様より教えを賜わっている”という謙虚な低姿勢でした。すぐに、自分の非を覚り、恥ずかしくなり平伏しました。

本来であれば、目上の方を前に私が運転せねばならぬ状況を、すっかり甘えてしまい、大変恐縮ですが、そこでも貴重な時間を許されました。

次の訪問先の浄化者に関し、御指導を賜わりましたが、驚く事に…訪問したら、医者の許可が下りて明日から復職できる事になったとの事でした。

数日前には、運転すると途端に首のハリ感や目まい等の自覚をおぼえ、私の母に相談しても、長期化の覚悟を助言されていた状態でのこの事実です。

同居するお母様の話によると、不思議だが、昨日(23日)から今日(24日)にかけてのこの一日で、何やら急激に状況が変化していったとの事でした。

代表へ相談する前から、医者の許可が下りていた経過ですが、私は、その医者の許可が下りる午前中の時間帯に『集団浄霊』を受け、実は身体が宙に浮く感覚を受け、光の強さを覚える中で、霊線と想念を意識して、浄化者へ届くように祈念していました。

こじつけかもしれぬので、一概に決め付けられませんが、何れにせよ、浄化変化に劇的な変化の生まれた有難い一日でした。

私は、まだまだ信仰的には素養に欠け、未熟者ですから、これから一つ一つ学ばせて頂き、実践場面を決め付けず、応変自在に救いへ貢献させて頂ける自分づくりを目指したく思います。

真っ先に感謝を申し上げたく、メールいたしました。これからまた、浄化者への訪問施術に向かいます。

代表にお目にかかれる、3ヶ月に1度の貴重な機会を、大変有難く思っています。

明日、定山渓で再びご指導賜れます事を、心より楽しみにしています。

この方は、2月1日に晴れて入会され、メシヤ様の御手足たらんことを目指して御神業に新たな一歩を踏み出されました。すると、「新しい動きが出ました」という喜びの報告を早速いただきました。こうした気付きに基づいた新たな道を歩み始めようとする文言を目にすると、感動いたします。そして同時に、そこから冒頭触れました『因縁使命』の自覚へと繋がるのです。

何時も御祈願させていただいていることは、“メシヤ教の信者及び「世界救世(メシヤ)教」復興運動に賛同する人々に御光が行き届き、『因縁使命』の自覚が許されてメシヤ様の御手足として御神業にお使いいただけますように”ということです。

そして、「善言讃詞」の『諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり』が実現するように願っていますが、1月度は素晴らしい出会いがありました。かつて「教団護持委員会」に立ち上がったものの、「主之光教団」となってから志と変貌する教団の姿の狭間で悩み距離を置いて約20年経つ、という方でした。その話に耳を傾けながら、胸を熱くした時期と、失意に苛まれた時期の言いようのない意念を汲み取らせていただきました。

しかし、再びメシヤ様との距離を縮められようとする思いを持っていただいたことに心から嬉しく思いました。

救済活動の具体論を求め続けて

札幌支部での全ての行事を終えて帰途に着いた際の機中で、出張の事後整理をしていてスクリーンをふと見上げたところ「手術を公開している医師」の紹介がありました。電子カルテの開発に数十億の債務超過を抱えつつも乗り越え、手術の様子をライブで希望者に公開しているという内容でした。

それは時代のニーズに応える、という姿勢からだそうで、“素晴らしい医者がいるものだな”と、メシヤ様の御言葉をまねて呟(つぶや)いてしまいました。

この映像をイヤホンなしで見ていて、青年布教師時代に浄霊の証を求め続けたことを走馬灯のように思い浮かべました。それは、お世話をさせていただいている信者さんが救急車で搬送された連絡があった場合には、すぐに病院へ駆けつけ、医者と交渉して浄霊を取り次ぎました。そして、検査内容と術後の結果の説明を受け、食い下がるように詳しい説明を求めました。検査内容と実際に手術をした内容に隔たりがあり、浄霊の時間と症状の変化を探りました。この具体例は、メシヤ講座中でお話してきた通りです。

また、信者さんの中でご家族の理解が得られず手術を余儀なくされた場合には、極力手術のビデオを撮影してもらい、ここでも、検査内容と実際の手術内容との違いを執刀医に説明してもらいました。そうすることを通して、物理的な浄霊の効果を検証したのです。

食い下がるような質問ということでは、MOA美術館が開館を控えた際に全国巡回展を開催した時に取り組んだことを想い出しました。これは、大阪支部遷座祭でもお話しました。

二十歳そこそこの人間が来賓に尋ねる内容は一つで、「芸術はあなたにとって必要ですか。それはどうしてなのですか」ということを名刺をいただきながら写真を撮影し、時間の許す限り質問し続けました。専門家以外の取り分け経営者の答えはほぼ同じでした。

「日々、分単位で決断を下さなければならない毎日で、一つ間違えば抱える社員を路頭に迷わすことになる。神経をすり減らす中で、たとえ一分でも時間ができれば社長室にある名品を目にすると、瞬時に疲れが取れるものだ」

若い時に芸術の価値を見い出した瞬間でした。それに基づいて、例題を挙げて大阪支部で課題提起した内容は次の通りでした。

 

「寒江独釣図」・・・MOA美術館では技巧の説明しかない。宗教が背後にあるのだから、精神面、悟りの境地が本来の解説として必要。そうした概念を基に他の美術品も鑑賞しなければもったいない。「紅白梅図屏風」・・・精神面から来るであろう署名の違いの意味するところは何か。

「色絵籐花文茶壷」・・・この良さを深く知るには、茶道の型、道としての精神に留まらず、お茶事の仕来たり、作法に流れる精神を知らねばならない。そうしなければ、祭典時の掃除の仕方が解らないことになるなど、信仰の向上に結び付かない。

「寒泉浴図」・・・春画を出口王仁三郎翁とメシヤ様が批評している話を聞いて大本教の若い女子奉仕者が信仰を止めたという逸話があるが、創造主の御立場からするとどういう御意図の下に語り合われたと拝察できるのか。45億年前に地球を創造されて、38億年まえに生命の源を誕生させているが、メシヤ様は約50万年前からのことを御啓示されている。その御立場からの話として指導者は拝察し、解説を加えなければならない。そうしなければ意味するところが解らない。

皆さん、このような話の内容に傾聴してくださり、それまで取り組んできたMOAの文化活動に対するレベルを明らかにされたようでした。

[print_link]