メシヤ講座・特選集no.128(平成23年9月分)

<御教え>

『文明の創造』科学篇
病気とは何ぞや


(文創  昭和二十七年)

愈々(いよいよ)之から病気に就(つい)ての一切を解説する順序となったが、抑々(そもそも)病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中溌剌(はつらつ)たる元気を以(もっ)て活動が出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は膿化した不潔物である。では何故(なぜ)其(その)様な病気の原因となる処の薬剤を使用しはじめたかといふと、之には大いに理由があるから詳しくかいてみるが、抑々(そもそも)人類は未開時代は兎も角(ともかく)、漸次(ぜんじ)人口が増へるに従って、食物が不足になって来た。そこで人間は食物を探し求め、手当り放題に採っては食った。勿論(もちろん)農作法も漁獲法も幼稚の事とて、山野、河川至る処で木の実、草の実、虫類、貝類、小魚等を漁ったが、其(その)良否など見分ける術(すべ)もないので、矢鱈(やたら)に食欲を満たそうとしたので、毒物に中(あ)てられ、其(その)苦痛を名付けて病気と謂(い)ったのである。そこで何とかして其(その)苦痛を脱(のが)れやうとし、草根木皮を試(こころ)みた処、偶々(たまたま)苦痛が軽くなるものもあるので、之を薬と称して有難がったのである。其(その)中での薬の発見者としての有名なのが、中国漢時代に現はれた盤古(ばんこ)氏で、別名神農(しんのう)といふ漢方薬の始祖人であるのは余りにも有名である。

右の如くであるから、食物中毒の苦痛も勿論(もちろん)其(その)浄化の為(ため)であり、薬効とは其(その)毒物の排泄停止によって苦痛が緩和されるので、已(すで)に其(その)頃から浄化停止を以(もっ)て病を治す手段と思ったので、此(この)迷盲が二千有余年も続いて来たのであるから驚くの外はない。そうして西洋に於ても草根木皮以外凡(あら)ゆる物から薬を採ったのは現在と雖も(いえど)そうである。従って薬で病気を治す考え方は、之程開けた今日でも原始時代の人智と些(いささ)かも変ってゐないのは不思議といっていい。

偖(さ)て愈々(いよいよ)之から実際の病気に就(つい)て徹底的に解説してみるが、抑々(そもそも)人間として誰でも必ず罹る(かか)病としては感冒であらうから、之から解説するとしやう。先(ま)づ感冒に罹る(かか)や発熱が先駆となり、次で頭痛、咳嗽(せき)、喀痰(かくたん)、盗汗(ねあせ)、節々の痛み、懈さ(けだる)等、其(その)内の幾つかの症状は必ず出るが、此(この)原因は何かといふと、体内保有毒素に浄化作用が発(おこ)り、其(その)排除に伴ふ現象である。処が其(その)理を知らない医療は、それを停めやうとするので、之が大変な誤りである。今其(その)理由を詳しく説明してみると斯(こ)うである。即ち人間が体内に毒素があると、機能の活動を妨げる(さまたげる)ので、自然は或(ある)程度を越ゆる場合、其(その)排除作用を起すのである。排除作用とは固(かた)まった毒素を熱によって溶解し、喀痰(かくたん)、鼻汁、汗、尿、下痢等の排泄物にして体外へ出すのであるから、其(その)間の僅か(わず)の苦痛さへ我慢すれば、順調に浄化作用が行はれるから毒素は減り、それだけ健康は増すのである。処が医学は逆に解して、苦痛は体内機能を毀損(きそん)させる現象として悪い意味に解釈する結果、極力停めやうとするのであるから、全く恐るべき誤謬(ごびゅう)である。そうして元来浄化作用とは、活力旺盛であればある程起り易いのであるから、弱らせるに限るから、茲(ここ)に弱らせる方法として生れたのが医療である。勿論(もちろん)弱っただけは症状が減るから之も無理はないが、実際は無智以外の何物でもないのである。其(その)弱らせる方法として最も効果あるものが薬である。つまり薬と称する毒を使って弱らせるのである。人体の方は熱によって毒素を溶かし、液体にして排泄しやうとして神経を刺戟(しげき)する。それが痛み苦しみであるのを、何時(いつ)どう間違へたものか、それを悪化と解して溶けないやう元通りに固め(かた)やうとする。それが氷冷、湿布、解熱剤等であるから、実に驚くべき程の無智で、之では病気を治すのではなく、治さないやうにする事であり、一時の苦痛緩和を治る過程と思ひ誤ったのである。処が前記の如く苦痛緩和手段其(その)ものが病気を作る原因となるのであるから由々しき問題である。つまり天与の病気といふ健康増進の恩恵を逆解して阻止排撃手段に出る。其(その)方法が医学であるから、其(その)無智なる評する言葉はないのである。近来よく言はれる闘病といふ言葉も、右の意味から出たのであらう。

右の如く感冒に罹る(かかる)や、排泄されやうとする毒素を停めると共に、薬毒をも追加するので、一時は固(かた)まって苦痛は解消するから、之で治ったと思ふが、之こそ飛(と)んでもない話で、却(かえ)って最初出やうとした毒素を出ないやうにして後から追加するのであるから、其(その)結果として今度は前より強い浄化が起るのは当然である。其(その)証拠には一旦風邪を引いて一回で治り切りになる人は殆(ほと)んどあるまい。又陽気の変り目には大抵な人は風邪を引くし、風邪が持病のやうになる人も少なくないので、そういふ人が之を読んだら成程と肯(うなず)くであらう。此(この)様に人間にとって感冒程簡単な体内清潔作用はないのであるから、風邪程有難いものはないのである。処が昔から風邪は万病の基などといってゐるが、之程間違った話はない。何よりも近来の如く結核患者が増えるのも風邪を引かないやうにし、偶々(たまたま)引いても固(かた)めて毒素を出さないやうにする。従って結核予防は風邪引きを大いに奨励する事である。そうすれば結核問題など訳なく解決するのである。それを知らないから反対の方法を採るので、益々増へるのは当然である。

そうして右の如く病原としての毒素固結であるが、此(この)原因は先天性と後天性と両方ある。先天性は勿論(もちろん)遺伝薬毒であり、後天性は生れた後入れた薬毒である。処が其(その)両毒は人間が神経を使ふ局部へ集中固結する。人間が最も神経を使ふ処としては、上半身特に頭脳を中心とした眼、耳、鼻、口等であるから、毒素は其(そ)処(こ)を目掛けて集中せんとし、一旦頸部(けいぶ)附近に固結するのである。誰でも首の周り、肩の附近を探ればよく分る。其(そ)処(こ)に固結のない人は殆(ほと)んどないといっていい。而(しか)も必ず微熱があるのは軽微な浄化が起ってゐるからで、頭痛、頭重、首肩の凝り、耳鳴、眼(め)脂(やに)、鼻汁、喀痰(かくたん)、歯槽膿漏等は其(その)為(ため)である。処が毒結が或(ある)程度を越ゆると自然浄化が発生するし、其(その)他運動によって体力が活潑(かつぱつ)となったり、気候の激変によって自然順応作用が起ったりする等の諸原因によって風邪を引くやうになる。よく肩が張ると風邪を引くといふのは之である。又咳嗽(せき)は液体化した毒結排除の為(ため)のポンプ作用であるが、之は首の附近とは限らない。各部の毒結もそうである。次に嚏(くさめ)であるが、之は恰度(ちょうど)鼻の裏側、延髄附近の毒素が液体となったのを出すポンプ作用であるから、此(この)理を知れば実際とよく合ふ事が分るのである。

右の如く頭脳を中心とした上半身の強烈な浄化作用が感冒であるから、此(この)理屈さへ分れば、仮令(たとい)感冒に罹(かか)っても安心して、自然に委せておけばいいので、体内は清浄となり、順調に割合早く治るのであるから、此(この)事を知っただけでも、其(その)幸福の大なる事は言ふ迄もない。

 


≪解説≫
現代社会の光明として希求される
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

祭典の在り方への探求

『文明の創造』を拝読し、世に出す取り組みを進める際に最重要事なのが、執筆者であるメシヤ様の御神格への認識であり、それに基づく神観の確立です。9月度の「メシヤ講座」で触れた内容は、メシヤ様が『神を解剖してどうするのか』と御指摘になった屁理屈の神観ではなく、メシヤ様が示された信仰姿勢を確立するためのそれであったのです。そして、神様へ真向かう祭典の在り方への探求であったのです。

祭典で奏上する『天津祝詞』並びに『善言讃詞』についての学び、また、御神名を唱える姿勢の学びは、出雲、岡山両支部の発会式でお話した内容を参照していただきたいと思います。また、御神前に額ずく想念については、浜松、三重、枚方、岡山の各支部ホームページで紹介していただいていますが、三重支部の体験記が深く関連することから、「メシヤ講座・「メシヤ講座・三重(平成23年9月分)」から一部引用します。

○祝詞奏上について 参拝する時のイメージ作り

 (先生)
 善言讃詞の中身は○○さんわかりましたか。今まで真面目に信仰して来たが故に聞くのですが、「みろくおおみかみ」と「おしえみおやぬしのかみ」と唱えて来たでしょう。天津祝詞を奏上すると、後半に『祓戸大神等 諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を天津神国津神八百萬の神等共に天の斑駒の耳振り立てて聞こし食せと 恐み恐みも白す』と出て来るでしょう。何故「 みろくおおみかみ」様に奏上しているのに『祓戸大神等』が出て来るのでしょうか。という疑問は起きたことは無いですか。

 (質問者)
 今起きました。(大笑い)  (先生)
 私は二十代の頃、そのような言葉にこだわるのでとても疑問でした。まあ、祝詞はこんなもんだ、と、大概の人は思いますが。

 (質問者)
 そういうお役の神様をお使いになられるのでしょうか。 (先生)
 どういう感じで使われるのでしょう。『祓戸大神等 諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を 』でしょう。使うのであれば『祓戸大神等をもちて、諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を 』ではないでしょうか。

 (質問者)
諸々の神様が三千年来の罪穢れをメシヤ様にお詫び申し上げるのではないのでしょうか。黄泉の国へ行った穢れも伊邪那岐命様には発生していますので、祓戸大神様をお使いになって祓うという・・・。

 (先生)
いい話だね。それも含めて、○○さんどうですか。

(質問者)
 まあ、こういうものかと。

 (先生)
 こういう話を何故三重でするかというと、三重支部で御神前を作り変えて御神体をお迎えする前に見えたものがあるでしょう。説明してあげてください。

【発表文(2010年立春祭体験発表)を抜粋します。】

「後は御神体を迎えるだけ」となった4月4日に、御神前で、御浄霊をいただきに見えたある方と参拝をさせていただいている時に、御神体を御奉斎するその白壁に、光輝く階段、そして階段上には丸い輝く光々しい物を拝しました。その時、感じたのは、六十段の神界のそのまた上段ではないのかということと、善言讃詞の中の一節『光明如来と現じ 応神弥勒と化し 救世主(メシヤ)と成らせ・・』で、まさしく我家にお迎えさせていただくのは、最高の御神体なのだと、強く強くわき上がる喜びに、胸に熱いものが込み上げてきました。

 (先生)
 ですからその情景と御教えをくっつけるとね。御神前はどうなるかとイメージを膨らませていただきたい。想像して見てください。

主神様が頂点におられてね。見えた段は霊界全部の段ではなくて天国界の段ね。

 その段数にそれぞれの役割を担った神様が整然とお並びになってくださって居られる。御神格に応じてね。その中に皆様方の氏神様もお並びになって居られます。

その前に皆様方は座って礼拝をするのです。

そうすると、

『祓戸大神等 諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を 』

と唱えると 祓戸大神様がサーッと出てきてね、祓うのです。それが皆、主神様の許可によって執り行われるのが、この月次祭なのだ、と、そういう気持ちでズーッと祝詞奏上を聞いていただけると有難いです。

そういうような気持ちを膨らませてこの御神前に額かなければ祝詞の意味がさっぱりわからないということです。

 その形として主神様のこういう・・・主神様は半径150億光年の宇宙総てを主宰されておられるので、その主神様の地球をお救いになる部分だけがメシヤ様として正面に出て来られているのです。が、縦に(重ねて)御奉斎すると主神様が見えないので横に(御尊影を)御奉斎させていただいているのです。

 それで御神業上必要なお金を運んでくださるのが大黒様です。大黒様は元々人間だったのですが、神格を得た人格神ですのでズーッと下のこの辺りです。この間にいろんな役割を担う神様とか氏神様の御神霊が我々の霊統に応じて整然と並ばれているのです。そして、月次祭を今か今かとお待ちしているのがこの御神前なのだということです。

 その御神前に対してまず天津祝詞を奏上することによって、我々の日常の枉事罪穢をまず祓っていただいて、それから、メシヤ様がおつくりになった善言讃詞を奏上して、その善言讃詞によって天国が作られて行く形が詠みこまれているのを響かせて、そして、我々の霊界をズーッと天国に引き上げていただけるのがこの天津祝詞、善言讃詞なのだという意識を持って月次祭に来ていただきたい。

そういう尊い月次祭だから参拝を絶対欠かしてはいけない、そういうものなんだ、という意識を持って、毎月毎月意識を高めて支部へ足を運んでいただきたいと思います。(また、その際の服装も、自ずから在り様が定まってくるものなのです。)

善言讃詞の前に天津祝詞を奏上する。天津祝詞を奏上する時の御神前の姿ですね、それを今日を境にさらに意識作りをしていただきたい、と思います。

『文明の創造』を中心にしてズーッと学びを積み上げてきたからこそ、こういうお話をする事が出来たのです。

 こういったお話を聞くと参拝する時に非常に緊張感が出てきますね。

 (質問者)
おしえみおやぬしのかみ」と唱えた時点で御神格を一気に下げてしまいますね。

 (先生)
そうです。教祖と唱えているのと同じですからね。大変に御神格を下げてしまいます。

 (質問者)
私は「おしえみおやぬしのかみ」というのは主神様の御教えを教えてくださるメシヤ様だと捉えているのですが・・・それは違いますか。

 (先生)
だから「おしえみおやぬしのかみ」と言ったらどこにでもいるからね。一般的に教祖様だからね。教祖の祖はおやと読むでしょう。遠津御祖(とうつみおや)と一緒です。

 さっきのね、○○さんのように言うのであれば、「主神様のおしえみおやぬしのかみと言えば主神様の教えを垂れる神様と言えるけどね、しかし、こんなややこしい言い方は必要ないから、もうメシヤ様という御存在になられたのですから。

 もし、どうしても分けてお参りするなら『メシヤ大御神』と唱えるですね。もしくは、『主神啓示のおしえみおやぬしのかみ』となります。

 主神様から御啓示をいただいて、そして、我々に教えを垂れる、と言わないと正確でありません。

しかし、もう主神様とメシヤ様は御一体であるし、大きさこそ違うけども同一神霊であられるのでね。だから主神様だけの御神名を唱えれば良いのです。

 (質問者)
 そういうふうに頭では理解しているのですが・・・。

(先生)
だから、メシヤ様は『信者たるもの常に魂を磨き言葉を練り・・・』と仰っていますね。

 言葉を練り、と言われた以上一番大切な参拝の言葉がおかしければ信仰自体どうにもならないでしょう。

 「そう思って私は言っているのよ」と言うのと同じでね。

 子供が「思っているのはこういうことだけど口を衝いて出ちゃったの」と言った時に「何馬鹿なことを言うの」と叱るでしょう。

だから我々の信仰姿勢も「言葉ではこう出ているけども、心はこうなんです」と言うことはね、神様からすればね、親と一緒だから、『何馬鹿なことを言っているんだ』ということになるからね。その点を一つ一つ正して行かないといけないということです。

 まずは参拝する時のイメージ作りからきちんとしていただきたいと思います。

「出雲支部」発会式の時の話と、「岡山支部」発会式の時の話、それから今日の話で、大体月次祭の参拝の想念作りがより明確になったかと思います。

私達が月次祭へ臨む姿勢も含めて、日々、月々、向上を目指す上で参考にしていただきたい内容ですので、繰り返し確認していただくようにお願いいたします。

三重支部で拝された御神床の荘厳さについては、祭典に対する姿勢を求める積み上げを重ねなければ説明できない内容でしたので、今日までずれこんでしまいました。また、この姿勢があるからこそ、当初からメシヤ教の御神体ではこの上なく上質の金襴を厳選して確保し、謹製に努めてきたのです。これこそが最高最貴の御存在へ礼節をお尽くしする在り方なのです。

こうした姿勢を積み上げさせていただくと、ブログ「メシヤ教広島」やホームページ「枚方支部」で取り上げた、某教団の御神体が情けなくてなりません。批判を加える意欲さえ失せるほどの在り様で唖然としました。幾重にも宗教者としての姿勢が問われることでありました。私達が弛まぬ努力を重ね、霊性の向上に努めれば努めるほど様々なものが俯瞰(ふかん)できるのです。

『善言讃詞』は祈りそのものであるという姿勢から

8月分で「『善言讃詞』は祈りそのものである」という内容を掲載いたしました。その姿勢がないから、かつての教団では『善言讃詞』改竄(かいざん)という蛮行を重ねたものと思われますが、仮りにその姿勢を取り戻すならば、各教団に希望が生まれます。

希望を抱いて「『世界救世(メシヤ)教』復興運動」の立場から進言するならば、和合を導く言霊として『爭闘事も夢と消へ一天四海観音の』の後に『仁愛の御手に帰一され』を復活させていただくべきです。『仁愛』が『大光明』に改竄(かいざん)されているところや『一天四海おしなべて』と改竄(かいざん)されているところもありますので、併せて特記しておきます。

勿論(もちろん)和合の根本は、冒頭記述したことと同様メシヤ様の御神格への明確なる認識です。そして、メシヤ様の御神意を現代に求める真摯な姿勢です。“御神格の確定をした”と豪語するならば、まずもって御昇天後の過ちを正さねばなりません。

更には、京都・平安郷に仏教美術館を建設するために奉仕を呼び掛ける当事者が、『多寶佛塔聳り建ち』『七堂伽藍は霞みつつ黄金の甍燦燦と』を改竄(かいざん)したままの御詞で奏上している、ということもいただけません。

一方、『無醫薬に』を奏上するからには、そうあるような指導方針を有さねばなりません。仮に“目指している段階でのことなのだ”と言いながら、薬併用の浄霊を進める戯言を重ねるならば言語道断です。それでは余りにも所属の信者さんがお気の毒です。気の毒な理由は、御神前で奏上しつつ“薬併用”を続けるならば、嘘吐きの人間を形成していることになるからです。それでは本末転倒も甚だしいことなのです。

この『無醫薬』で如何に健康に恵まれるかという事例として、9月度に開催した各地「メシヤ講座」で紹介した96歳のご婦人について、山口会場の百合野早苗さんが報告書をまとめてくださいました。メシヤ教の信者ではない方に関する内容ですので、より信憑性を感じていただけるのではないでしょうか。

<報告>

『無醫薬』のお蔭で元気そのものの96歳

山口会場 百合野早苗

ある高齢者向け優良賃貸住宅におられるご婦人から、素晴らしい話をお聞きしましたので、ご報告いたします。現在96歳の方でいらっしゃいますが、身なりもお洒落で、驚くほどお元気な方です。その方は、終戦前に満州から引き揚げ、親戚のあるY県に行かれました。ご主人は、警察の方で満州に後片付けのために一旦戻られ、三人の子供のうち、長女とそのご婦人は、Y県で、長男と次女は、主人の実家の長崎で、家族バラバラで生活されていたそうです。

ご主人は、満州から帰って来て、2年ぐらいして亡くなられ、長男が、小1の時に長崎の原爆に遭われたそうです。放射能の直撃に遭遇され、そのため、体も弱かったようです。

ある夜、長男が高熱を出した為、病院に連れて行こうとしたところ、舅さんから

「病院へは行かなくても、寝てれば自然に治る。人間は、動物と同じなのだから、動物と同じ様に、じっとしてればそのうち良くなる。」

「病院へ行くと治す力が無くなってしまうから、病院へ絶対連れて行くな

と言われ、大変、心配ではあったのですが、“舅の言うことに、従ってみよう”と思い、何日か寝せていたところ、舅の言う通りすっかり元気になられたそうです。

それ以来、子供達も含め、家族全員、今まで一度も病院に行かれたことはなく、「そのお蔭で、今もこうして元気でいられる」と、しみじみと感謝の気持ちが伝わるように話されました。

しかし、長男は原爆に遭っていたせいか、若いころから髪の毛は白く、40歳で亡くなられたそうです。

ご婦人は、施設で元気に過ごされてますが、その元気の秘訣は、ご自身の生活の中にもありました。

朝は5:30に起床され、朝の体操。

その後、NHKのラジオ体操、その後、自室での朝食。トーストと旬の果物は、欠かさず、食べられるとのことでした。

また、“自分の体は、自分が一番知っているから”と、朝昼晩と、自分の食べる量以外は、最初から、減らしておられ、ご高齢でありながら、部屋の隅から隅まで掃除をされています。

施設の方々とも、機械を使った体操をされ、趣味の裁縫など、色々な事をなされ、日々、感謝されながら、穏やかに過ごされています。

私達は、メシヤ様の御教えより、このような人間生活の道を、お教えいただいていますが、未信者さんでおられるのに、「人間は、動物のように、治す力を持っている」ことを知っておられ、それを実生活で実践されていることに、改めて、感嘆したのです。

「病院に行かなかった、そのお蔭で今もこうして元気でいられる。」

病院に行けば早く治ると勘違いされ、早期発見が、一番と右往左往します。そのことが、回復を遅らせ、自然治癒力を弱めていくことに気づきません。

96歳になられる今日迄、身体も無理をしたり、逆らったこともおありだったことでしょう。しかし、永年培った身をもっての、体験から悟り得た事は、自然の摂理に従って生きる事、つまり、「自分の事は、自分が一番知っている」という言葉ではないでしょうか。

何事においても、自分の判断力は鈍り、思考すること、見極める能力が衰退している現代人ですが、この様な方々の生き方が自然であり、真理であると思うのです。薬毒さえ、身体に入れなければ、心身共に、健康で生活でき、介護されずとも、楽しく生きれるという証明をいただきましたことは、何よりの教訓でした。

以上です。貴重な学びをありがとうございました。

報告内容は輝きに満ちております。税制、医療、福祉をはじめとする難問に直面している日本社会に大きなヒントを与え、明るさをもたらす事例でもあります。また、そうであるからこそ、現代に御論文『文明の創造』が希求されていることを痛感いたします。

何故なら、今回の項目の冒頭で

『抑々そもそも病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。』

と、一文で真理を喝破されているからです。身体の仕組みを解説されつつ病気に対する判釈を明示され、御教示いただいてる私達は何と幸せなことでしょう。

月は年3,5センチ地球から遠ざかっている

そして、幸せをより確認できることとして、「人間は地球上の生物の総体であり、取り分けあらゆる動物の能力を具備している』ということを9月度は強調しました。

残念ながら、現代人の多くはその能力を薬毒と共に衰退させていますが・・・。

そうした現代にあっても幸いなことに、私達は、浄霊力を拝受することが許され、薬毒を排泄しつつ、本来有する自然治癒力を発揮させることが徐々にできております。10月から細かく学びを進める『文明の創造(科学篇)』では、随所に『病気は放任しておけば自然に治る』という御記述があります。

今回も

『自然に委せておけばいいので』

と御記述されております。正に自然治癒力の発揮を促されているのです。

「人間は地球上の生物の総体である」ということをイメージし易い番組がNHKで先般放送されたので、ご覧になって心躍らせた人が大勢いたのではないかと思います。以前、私は「月は地球から年4センチずつ離れている」とお伝えしたことがあります。ところが、アポロ計画により月面着陸して設置した際の反射鏡へ、レーザー光線を当てて観測を重ねることにより、年3,5センチ離れているということが判明した、というのです。これは正確な数字でしょう。以前は論理上の数字でしたから。ここまで解明した研究者の地道な取り組みに頭が下がる思いです。

このことは、様々な陰謀説を打ち消すと共に、進化のメカニズムをより理解できることへと繋がります。考えただけでも気が遠くなるような38億年に及ぶ悠久の生命誌です。御経綸と呼ぶに相応しい連続的思考の拡がりです。観測データに伴う論理立てを通して、人類を地球上に誕生させるための『主神様の御仕組』の一端を窺い知ることができるのです。

「科学的究明が主神様の御仕組の一端を解明し、そのことが私達の覚りを深めることへと繋がる」と幾度となくお話してきました。その認識と姿勢がないと『宗教と科学の一致』の御神意が解らず、低レベルの取り組みを手を変え品を変えて進める愚かさを見抜けないで過ごしてしまうからです。

メシヤ様を教祖と仰ぐ信者で、本来の御神業推進を願う者は『天魔羅刹も服ひて諸悪邪法は改まり』『夜叉龍神も解脱爲し』『諸善佛神咸く其志を遂ぐるなり』という御詞に焦点を当てて奏上を心掛けるべきです。何故か。その意味するところは、それぞれに自ずから判明することと思います。

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