メシヤ講座・特選集no.123(平成23年4月分)

<御教え>

『文明の創造』総篇
悪と守護霊

(文創  昭和二十七年)

前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。言う迄もなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在してゐる。そこで此(この)三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素といふやうになってをり、此(この)三元素は勿論各々(おのおの)の特質を有(も)ち、夫々(それぞれ)の本能を発揮してゐるが、右の中(うち)の火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球を囲繞(いにょう)しつつ、一切万有の生成化育を営んでゐるのである。

そうして地球上のあり方であるが、之は陰と陽に別けられてゐる。即ち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れてをり、此(この)経緯が綾状となって運動してゐる。此(この)状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上或(ある)程度の高さに迄達してをり、之が空気の層であり、大気でもある。右の如く陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表はれてゐるのである。又之を善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。此(この)意味に於て善も悪も対照的のものであって、之が大自然の基本的様相である。

此(この)理は人間を見ても分る如く、人体は見ゆる肉体と、見へざる霊の二元素から成立ってをり、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持してゐるのも此(この)両者の結合から生れた生命力によるのである。処が茲(ここ)に一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、之は事実がよく示してゐる。即ち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何が故(ゆえ)に悪心を起すかといふと、之が最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、其(その)つもりで読まれたい。といふのは善悪は心の問題であるからである。

偖(さ)て愈々(いよいよ)本論に移るが、右の如く人間は霊と体との両者で成立ってゐる以上、肉体のみを対象として出来た科学では、如何に進歩したといっても畢竟(ひっきょう)一方的跛行的(はこうてき)であってみれば、真の科学は生れる筈(はず)はないのは分り切った話である。之に反し吾々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、之こそ真の科学でなくて何であらう。

以上の如く善悪なるものは心即ち霊が元であり、而(しか)も霊主体従の法則を真理として、之から解き進める説を充分玩味(がんみ)するに於ては、根本から分る筈(はず)である。処で先づ人間といふものの発生であるが、言う迄もなく姙娠である。之を唯物的にいへば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎(はいたい)する。之を霊的に言へば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、茲(ここ)に三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依(ひょうい)する。今一つは正守護霊といって直接憑依(ひょうい)はしないが、絶へず身辺に着き添ひ守護の役をする。勿論右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言はば人間は三者共同体といってもいい。其(その)様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言ひ、神性そのものであり、之こそ良心でもある。昔から人の性は善なりといふのは之を指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘ってゐるのは誰も自分の肚の中を思へば分る筈(はず)である。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断に其(その)人の身辺に附添ひ、守護の役目をしてゐる。例へば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、凡(すべ)て其(その)人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違ひ、間が悪いなどといふのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免(まぬが)れる事などもそれであり、悪に接近しやうとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘ってをり、本霊が勝てば善を行ふが、副霊が勝てば悪を行ふ事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであらう。では一体副霊とは何の霊かといふと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、其(その)他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、他にも色々な霊があり、又此(この)副守護霊以外臨時に憑(つ)く霊もある。斯(こ)んな事をいふと現代人は馬鹿々々しくて到底信じられまいが、之は一点の誤りなき真実であって、之が信じられないのは其(その)人は唯物迷信の為であるから此(この)迷信を一擲(いってき)すれば直(じき)に判るのである。何よりも人間は其(その)憑(つ)いてゐる動物霊の性質がよく表はれてゐるもので、注意すれば何人にも分る筈(はず)である。

右の如く臨時に憑(つ)く霊も、殆(ほと)んどは動物霊であって、偶(たま)には人間の死霊(しりょう)もあり、極(ご)く稀(まれ)には生霊(いきりょう)もある。では臨時霊が憑(つ)く理由は何かといふと、言う迄もなく其(その)人の霊の清濁(せいだく)によるので、曇りの多い程悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするやうになる。此(この)理によって現代人の大部分は霊が曇り切ってゐるから、悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く活動し易い為、犯罪が増へるのである。処がそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まってをり、悪霊(あくりょう)を制圧する力が強いからで、茲(ここ)に信仰の価値があるのである。従って無信仰者は平常善人らしく見へても、何時(いつ)悪霊(あくりょう)が憑依(ひょうい)するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。此(この)理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此(この)光を最も怖れるのである。処が現代人の殆(ほと)んどは魂が曇ってをり、動物霊といふ御客様は洵(まこと)に入りいいやうになってゐるから、忽(たちま)ち人間は躍(おど)らせられるので、百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)の社会状態になってゐるのも当然である。而(しか)も其(その)様な事に盲目である為政者(いせいしゃ)は、只(ただ)法と刑罰のみによって悪を防止しやうとしてゐるのであるから、全然的(まと)を外した膏薬張(こうやくばり)で効果の挙がる筈(はず)がないのである。何よりも国会を見ても分る如く、殆(ほと)んどの議案は法律改正と追加といふ膏薬(こうやく)製造法であるから、之を常に見せつけられる吾々は、其(その)無智に長大息(ちょうたいそく)を禁じ得ないのである。

以上の如く悪なるものは大体判ったであらうが、此(この)根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。併(しか)し単に信仰といっても其(その)拝む的(まと)である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでゐると共に、正神と邪神との差別もあるから、之を見別けるには相当困難が伴ふのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うやうな御利益がなく、病気も治らず、行ひも面白くない人があるが、それは其(その)的(まと)である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。而(しか)も困る事には此(この)状態を見る世人は、之こそ低級な迷信と思ひ、偶々(たまたま)本教の如き正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪(た)へないのである。そうして昔から一般人は神とさへ言へば、只(ただ)尊いもの有難いものと決めて了(しま)ひ、差別のあるなど知らない為、甚だ危険でもあった。尤(もっと)も今日迄最高神の宗教は全然現はれなかったからでもあるが、喜ぶべし茲(ここ)に最高神は顕現され給ふたのである。

それが為今日迄の神は仮(たと)へ正しく共次位の階級であるから、其(その)力が弱く正邪相争ふ場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、之を見る人々はそれに憧(あこが)れ、真似しやうとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑(ごうけつ)の足跡である。成程一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。之を霊的にみると其(その)悉(ことごと)くは邪神界の大物の憑依(ひょうい)であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それも或(ある)程度迄で必ず挫折する。そうなると憑依(ひょうい)霊は忽(たちま)ち脱却して了(しま)ふ。吾々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリーニ、ヒットラーの如きがそうで、失敗後は人が違ふかと思ふ程痴呆暗愚的(ちほうあんぐてき)に気の抜けたやうになったが、之は大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在迄暗躍を続けつつあるが、正神界の方でも之に対立し戦ってゐるのである。其(その)神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。

以上の如く主神(すしん)は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其(その)結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲(ここ)に主神(すしん)は愈々(いよいよ)一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給ふ、之が九分九厘と一厘の闘ひであって、今や其(その)一歩手前に迄来たのである。従って此(この)真相を把握されたとしたら、何人と雖(いえど)も飜然(ほんぜん)と目覚めない訳にはゆかないであらう。

 

≪解説≫
魂の覚醒を促し、思考を拡げる
御論文『文明の創造』

メシヤ教代表 楳木和麿

「御神体御奉斎記念式典」で御直筆の御書「救世教(メシヤ教)」を掲げる

初めに、全御論文、全御講話、全御詩歌の電子書籍化の作業を開始したその夜に、メシヤ様御直筆の御書「救世教(メシヤ教)」の献納をいただいたことには大変驚かされました。慶賀すべきこととして、すぐさま「メシヤ様の御精神を現代に求める座談会」へ次のように書き込みました。

本部です。昨日、御教え(全御論文、全御講話、全御詩歌)の電子版を作成する打ち合わせを全て終えました。電子書籍リーダーでも拝読できるようになります。作業は2カ月余を要しますが、今から楽しみでワクワクしています。

既に「メシヤ講座」でお知らせしており仕上がった後に改めてお知らせしようと考えていましたが、全ての打ち合わせが終了した昨日の夜に、何と、メシヤ様御直筆の御書「救世教」の献納がありましたので直ぐにお知らせせねばと思わされた次第です。

「救世教」とは「メシヤ教」と読ませられたことは勿論のことです。現在まで拝したことのない御書です。奉献者が「本部に掲げてください」と申し出くださった際に、メシヤ様から現在進めている御神業に太鼓判を押していただいた思いになりました。そしてこれは、メシヤ教にご奉仕を捧げている入会者の誠、叡智、行動に対する賛辞を呈していただいていることでもあります。

今月、各地の「メシヤ講座」で『文明の創造』を基に学びを重ねさせていただく中で更なる発見を許され、本来進めさせていただく御神業の道筋が鮮明になっております。三重支部の方々の尽力で進めている『文明の創造(二・下)』編集、校正の作業でも新たな課題や方向性が浮き彫りになっており、積み重ねてきた取り組みの確かさを噛み締めていますが、そうした中での慶事です。

心から感謝申し上げると共に、来月の「御神体御奉斎記念式典」でご披露できる喜びに包まれています。

この書き込みに多くの方々から称賛の声が寄せられました。

電子化の作業開始と共に御書の献納をいただくという慶事を迎え、メシヤ様の御神慮に心から感謝申し上げました。そして、献納された池尻裕安さん(島根県出雲市在住)の真心に御礼申し上げると共に、池尻さんのご尊父が御在世当時に信仰を捧げられたからこそ御書を所有することができたのであり、池尻家の尊い信仰に重ねて心から感謝申し上げます。

「救世教(メシヤ教)」は御神前に掲げさせていただきました。昭和25年に御揮毫になられた由にて、ご参拝毎に拝して心新たにし、メシヤ様が「世界救世(メシヤ)教」を開教された御意図を求め、その都度、本来の御神業推進の決意を固めさせていただくためにです。

また、書き込みでは触れなかったのですが、「本部に掲げていただけるのであれば、本部へ参拝すれば何時でも拝すことができる」という尊い申し出により、御書「神恩無極」、「天恩地恵」、「大建設」、「真善美」も併せて奉納いただいたことをお知らせいたします。

どの御書も素晴らしいのですが、「神恩無極」はことのほか強い御筆跡で圧倒される思いになります。「神恩」という意味、「無極」という意味から、御神体や御尊影をはじめとする御下付物の奉安庫の背後上に掲げさせていただきました。「神恩無極」の御前から御下付へ向かうようにしたいからです。

「真善美」は大額で実に滑らかな御筆跡でついウットリとなってしまいます。今しがた御揮毫を終えられたような墨の濃淡があり、香ってきそうです。「天恩地恵」は、今年から打ち出した直会への姿勢を後押しいただけるような思いになります。「大建設」は素早い御筆跡で、本来の御神業がスピードアップされるように受け止めさせていただいています。

また、この日に立石眞通さん(出雲市在住)からも、御直筆の御軸「地上天国」が献納されました。経の御文字は非常に珍しく、拝するごとに喜びが湧いてきそうです。

この御書奉納は、私達の進めさせていただいている御神業の確かさを裏付ける出来事と受け止めることができます。しかし、そのことを以って自慢したり、威張ったり、他を謗(そし)ったりするものではない、そうした態度に出るものではない、ということを肝に銘じておきたいと思います。

これはまた、教団裏面史の真実が寄せられ、先達の過ちを知り得たとしても同様であります。ましてや、それを攻撃の材料とすることも慎まねばなりません。事実を知れば腹も立ち、煮えくりかえるような思いに襲われもしますが、どこまでも、メシヤ様の進められようとされた本来の御神業を推進し、範を示さねばならないのです。

先ほども触れたように、この度御書を献納いただけたのも御在世当時に先達が捧げた尊い信仰があったればこそ、だからです。

唯一善が悪に勝利した「民主主義」

そして、その尊い信仰を受け継ぐと共に、メシヤ様の御心に適う在り方へと高めてゆかねばなりません。その願いを受けて、4月度の「メシヤ講座」の中から、まず、「三重支部・メシヤ講座(平成23年2月分)」でまとめていただいている内容を引用します。

◎生温(なまぬる)い民主主義から脱却しよう(先生)
メシヤ講座の中から確認したいことがあれば質問して下さい。2ページめに『併(しか)し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。』とあります。メシヤ様も民主主義がまだまだ『封建の滓(かす)が残っている』と御認識されていたということですね。ですからメシヤ様の本来の御心としては、メシヤ様の弟子が本来の民主主義にして行かないといけないのです。それが教団自体が民主主義から乖離(かいり)してしまったという訳なのでね。(中略)

◎布教師は下位上達で御教えに沿った指導を行うべき

(先生)
要するに、下の人達の意見が上の人達に通っていくのかどうかということです。メシヤ様の御教えを教団運営をしている人達がさっぱりわかっていない、という事なのです。それが実態だという事を、こういう御教えを拝読しながら見抜いていかないと、地上天国を建設していくことはできないのです。

こういうことを拝読しながら、自分に確認していって頂きたいと思います。下位上達でなければいけないということと、御教えに沿った御取次ができていかなければいけません。そうすると、この御教えと照らして行くとやはり『生温い民主主義』なのですね、「信者の為」とか言いますけども。実態はそういうものではない、と言う事を、この「文明の創造」を拝読しながら気付かされる訳です。

この問答は、

『処が日本に於ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此(この)一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併(しか)し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。』

という内容を踏まえて取り上げさせていただいた内容です。唯一『悪に対して善が勝利を得た』ということを重く受け止めねばなりません。

この点を過去の指導者はどれ程取り上げて来たのでしょうか。そして、どれほど発信して来たのでしょうか。残念ながら、私の若い時から耳目に触れたことがありません。

唯一善が悪に勝利した「民主主義」へのメシヤ様の更なる御心

しかし、メシヤ様は『私ばかりではあるまい』と強調されて、論究しておられています。その御心を理解させていただくためには、「浜松支部・メシヤ講座」で引用している御教えが大変参考になります。

『悪に対する憤激』(「地上天国」二十一号、昭和二十六年二月二十五日)熟々(つくづく)、現在の世の中を見ると、どうも今の人間は、悪に対する憤激が余りに足りないようだ。例えば悪人に善人が苦しめられている話など聞いても、昂奮する人は割合少ない。察するに、悪に対しいくら憤激した処で仕方がない、而(しか)も別段自分の利害に関係がないとしたら、そんな余計な事に心を痛めるより、自分の損得に関係のある事だけ心配すれば沢山だ、それでなくてさえ、此(この)世智辛(せちがら)い世の中は心配事や苦しみが多過ぎる、だから、見て見ぬ振りする。それが利口者と思うらしい。而(しか)も世間は斯(こ)ういう人を見ると、世相に長(た)けた苦労人として尊敬する位だから、それをみて見倣(なら)う人も多い訳である。

又、政治が悪い。政治家や役人が腐敗している。社会の頭(かしら)だった人が贈収賄、瀆職(とくしょく)事件等でよく新聞などに出ており、特に近来非常に犯罪が増え、青少年の不良化等も日本の前途を想えば、此儘(このまま)では済まされないし、役人の封建性も依然たる有様だし、民主主義の履き違いで、親子、兄弟、師弟の関係なども洵(まこと)に冷たくなったようだ。税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)も酷(ひど)過ぎるし、民主主義も名は立派だが、実は官主主義に抑えつけられて、人民は苦しむばかりだ。其他何々等々、数え上げれば限りのない程、種々雑多な厭な問題がある。之等悉(ことごと)くは勿論、社会的正義感の欠乏が原因であるに違いないが、何といっても、前述の如く所謂(いわゆる)利口者が多すぎる為であろう。然(しか)しよく考えてみればそういう社会になるのも無理はない。何時(いつ)の時代でもそうであるが、殊に青年層は正義感が旺盛なもので、悪に対する憤激も相当あるにはあるが、先(ま)ず学校を出て一度社会人となるや、実際生活に打(ぶ)つかって見ると、意外な事が余りに多く、段々経験を積むに随(したが)って考え方が変ってくる。なまじ不正に興奮したり、正義感など振り廻したりすると、思わぬ誤解を受けたり、人から敬遠されたり、上役からは煙たがられたりするので、出世の妨げともなり易いという訳で、いつしか正義感などは心の片隅に押し込めて了(しま)い、実利本位で進むようになる。斯(こ)うなると兎(と)も角一通りの処世術を会得した人間という事になる。

之等も勿論、悪いとは言えないが、斯(こ)ういう人間が余り増えると、社会機構は緩(ゆる)み勝となり、頽廃気分が瀰漫(びまん)し、堕落者、犯罪者が殖える結果となる。現在の社会状態がそれをよく物語っているではないか。そうして私の長い間の経験によるも、先(ま)ず人間の価値を決める場合、悪に対する憤激の多寡によるのが一番間違いないようである。何となれば悪に対する憤激の多い人程骨があり、確(しっ)かりしている訳だが、然(しか)し単なる憤激だけでは困る、稍(やや)もすれば危険を伴い勝だからである。事実青年などが兎角血気にハヤリ、人に迷惑を掛けたり、社会の安寧を脅す事などないとは言えないからで、それにはどうしても叡智が必要となってくる。つまり憤激は心の奥深く潜めておき、充分考慮し、無分別な行(や)り方は避けると共に、人の為、社会の為、正なり、善なりと思う事を、正々堂々と行うべきである。之(これ)に就(つい)て私の事を少しかいてみるが、私は若い頃から正義感が強く、世の中の不正を憎む事人並以上で、不正を見たり聞いたりすると憤激止み難いので、其(その)心を抑えつけるに随分骨を折ったものである。然(しか)し此(この)我慢は仲々苦しいが、之も修業と思えば左程でなく、又魂が磨かれるのも勿論である。此(この)点今日と雖(いえど)も変らないが、之(これ)も神様の試練と思って忍耐するのである。此(この)様な訳で理想としては、不正に対し憤激が起る位の人間でなくては、役には立たないが、只それを表わす手段方法が考慮を要するのである。即ち些(いささ)かでも常軌を失したり、人に迷惑を掛けたりする事のないように、呉々(くれぐれ)も注意すべきで、どこ迄も常識的で愛と親和に欠けないよう、神の心を心として進むべきである。(自観)

このように、未成熟な民主主義を憂いて、鋭く御批判を加えられています。この御口調で、現在存在する教団(メシヤ様を教祖と仰ぐ)の現状をどのように論じられるであろうか、と想像してみてください。

『薬を使用したら親子の縁を切る』とまで仰った御心からすると、口角泡を飛ばす勢いではなかろうか、と拝察されます。

メシヤ様が御自ら御面会で示された「民主主義」の手法

では、御批判をされるだけかと言いますと、それは「否」であるのは勿論のことです。ここで、枚方支部での遣り取りを参照してください。

代表先生 そして今岡田茂吉全集というのを拝読していった時に、大まかには、論文集、いわゆる全集で言えば著述篇、それから御面会の時の質疑応答でなった講話篇、そして詩歌篇と大きく3つで構成されている訳ですけれども、著述篇といういわゆる御論文というのは、メシヤ様は口述筆記して、こういうもんだと、神の言葉をドンと伝えている。しかし質疑応答、講話篇は、一人の代表者に今のように拝読させて、その後はみんなからの質疑応答に変わった。この質疑応答の形式は、メシヤ様は他の宗教の教祖とは違って、質疑応答形式を何故とったか、というと、実はここにある訳です・・、(真の)民主主義。そしてしかも、「そんなことメシヤ様に聞いてはいけないよ」とか言うような・・、普通ほら、前の会長さんにしろ、信者さんに向かって、「そんなこと(今の)会長に言っちゃだめよ」とか言うでしょ、その姿勢が封建主義になるんだから。だから民主主義は、誰もがメシヤ様に質問していい、という御姿勢をとられたのがこの講話篇、なんです。

参加者

「質問してはダメです」とか、怪訝な顔をされてしまうとか、セーブされる、という事がありますね。

代表先生

だからもう、それが民主主義ではないということを、メシヤ様は身をもって御面会の時に示していった。だからメシヤ様は、そんなこと御教えに書いてあるような事、何故質問してくるのかということを、講話篇を読んでいくと、信者さんが質問しているのが一杯ある。それに対してメシヤ様はあまりにも行き過ぎの時は、ちゃんと御論文に書いてあることを、読み方が足りない、とお叱りになることもあるけれども、だいだい丁寧に御答えになっている。

その姿勢をメシヤ様は身をもって示された、身をもって示しておられたにもかかわらず、その後の人間達が威張り腐っている。○○○○会なんてその極みですよ。威張っている極み。何か報告すると、「なってない!」とかね、「馬鹿のチョンだ!」とみんなに言ってね。

参加者 そうですね。ほんとに馬鹿呼ばわりですね。

代表先生

でしょ。馬鹿呼ばわりでしょ。最高の御神格をお持ちになったメシヤ様でも、みんなからの質問に耳を傾けて徹底的に聞いて、そして救いを垂れてね。それにもかかわらず後に続いた者たちが威張ってね。質問したら、“何なんていうことを聞くんだ”という顔して答えてる。

それは何かというと、ものが分かってない。分からないから、質問がなってないとか、そんな質問を会長先生に言っちゃいけませんよ、ということを側近が言い出すんですよ。これがもう封建、カス、カスだらけということです。こういうふうにして○○之光教団の指導者達を見るとよく分かるでしょ。

(中略)

参加者

信者間に貫いた部分の封建というよりも、専従者の方たちの中が、ものすごく封建的だなと、すごく感じるんです。
それを家で、未信者の主人にちょっと話したことがあったんですが・・・。

「でも、宗教っていうのはいろんな人がくるから、ある程度封建的じゃないと秩序が保たれへんから仕方がないもんやと思うけどな」と。「そうせんかったらそれぞれが好きなことを言うから、『やっぱりこうだ!』と言ったら、そうしないと・・。逆にそうしない人は、切っていくぐらいじゃないと収集がつかない。会社とかじゃないから」

と何も知らない主人ですが、そう言ってた事があるんです・・・。

代表先生

だからそういった考え方が、いわば夜の時代の考え方なんです。それが封建思想。要するに、信者を「愚民」だと考えている。愚かな民だよと・・。だから、上がきちんと指導しないといけないよ、と。しかし、メシヤ様はそんな事は仰っていない・・。要するに庶民が賢くならないといけない、と仰っている。賢くなるために、どんどん御教えを渡されていかれ、メシヤ様のほうはそれこそ毎日御教えを御書きになられている。・・・毎日口述筆記をされている訳でしょ?庶民が「賢者になっていくため」に、メシヤ様はお出ましになっているワケ。で、みんなが賢い人間になっていく・・・。

参加者 そうか、「愚民」だったんだ(笑)

代表先生

そう、組織から言うと、「愚民」というより、もっと言えば「奴隷」。それが○○○○会なんかそうでしょ、○長の奴隷なんだから、みんな。借金までしてね。

ここで何を訴えようとしたかと言いますと、『文明の創造』を拝読させていただくことにより、魂の覚醒が促され思考を拡げることが許され、そして、御教えの電子化の作業を進める中で、“御教えの構成そのものが民主主義の範である”ということに気付かされる、ということなのです。

しかも、この話をした翌日に御書を賜ったということにも御神慮を感じるのです。

神観の確立と主神様の御意図を受けた思想の確立

そこで、もう一度御神業というものを見つめ直して、また日々の信仰生活というものを整理してみますと、『地上天国建設』というものを具体的に捉えきれていないことを見出すのです。例えば『最後の審判』をセットで捉え切れず、『地上天国建設』とは別個に把握してしまうきらいがあるのです。

主神様を認識できるようになり、御経綸の御意図が把握できるようになった時に、今まで論じられてきた論法からステップアップを図らねばならないことにお気付きであると思います。今回学ばせていただいた民主主義については、人類の叡智が生んだものであり、それをメシヤ様は『善が悪に勝利した』と評価されています。しかも、更に本物の民主主義にせねばならない、と強く求められています。それこそが、『地上天国建設』の取り組みの一つなのです。

時期を同じくしてブログ「岩戸開き」が切り口の違う論調を示してくれました。最後に引用しますので、参考にしていただきたいと思います。

メシヤ様(岡田茂吉教祖)の御教え、三好基晴先生の御著書・御講演について、私(当ブログ管理者)の思っていることを書かせていただきます。

現在、テレビ、パソコンを設置している家庭は非常に多い。また、学校教育においても、小学校からパソコン教育に重点を置いており、眼を患う環境は、戦前の比では、ないと思います。

そして、目薬の利用者は非常に多く、そのことも眼病増加に拍車をかけていることでしょう。

三好基晴 医学博士の医学解説に、目薬には、薬の他に、ビタミン剤、酸化防止剤等も入っているとのことです。

日常生活の面では、電車の中での読書等が、眼に負担をかけていることを反省し、眼のみならず、肉体、霊体ともに最善の生活習慣を実践することが大事でありましょう。

今回の御教えの中で、眼科医が眼病になり、自身の専門である眼科治療を施すも、悪化の一途を辿り、メシヤ様(岡田茂吉教祖)より御浄霊を頂き、御守護いただかれた体験談があります。この医師は、身をもって、浄霊の偉大さを痛感されたことでしょう。

今後、大浄化時代になり、現代医学の専門家が、自身の習得した医療を施し、悪結果のみしか得られない状況になったとき、初めて医学に疑問を持つことになることでしょう。

そのときに、何も準備していないことのないよう、日頃より御教え拝読、浄霊の実践に取り組み、備えることが大事と考えます。

さらに、今回の御教えから、現代文化の問題点を挙げますと、

 

・    パソコン、ゲーム、3D画面の普及により、視力の低下、脳の解析機能に負担がかかる時代になったこと。

 

一方、現代文化よりみる明るい未来への序章として、

 

・    パソコン等の普及により、情報の取得が如何様にもできる時代を迎えたこと。

・    乗り物の振動が少なくなり、将来、リニアモーターカーが走行するようになれば、より改善し、目に負担をかけずにすむことが期待されること。
御教えから、視力低下の原因を考慮し、生活指導の改善をはかることにより、視力低下を解決し、そのための技術の改善が地上天国建設に不可欠と考えます。

 

このように示されている『地上天国建設』の、謂わばツール面では、一つひとつを御神業上必要であるという認識を持つか否かは、メシヤ様が示された『神観』に基づいて主神様の御意図を求める営みがなければ、具体的に捉え難いところがあります。言い換えれば、御神業上で認められる『地上天国建設』のツールという選別のためには、主神様への認識、祈りが不可欠なのです。

そして、御教えの電子化と御教え拝読のための作業を積み重ねてゆくと、このツール面において既に一部『地上天国』を迎えている、と思わずにはおれません。

また、『建設』と『破壊』は同時進行である、と教えられていますが、各分野での救世主的存在が着々とツールを創りだしつつあります。それは、今私が有するツールで御教えに基づく症状の原因に加え、服用履歴の薬に起因して起きる症状の検索まで可能であることからもご理解いただけると思います。まさに、『薬禍薬害』を具体的に把握できる段階に入っているのです。

謂わば、問題解決の在り方が非常にスムーズになっています。こうしたことから、『地上天国建設』を具体的に推進できていることを実感させていただいているのです。素晴らしい時代を迎えていることを是非認識していただきたく願っています。