メシヤ講座・特選集no.104(平成21年9月分)

<メシヤ様対談記・13>

メシヤ様が教団内外の人々との間で執り行われた対談内容は、私達の御神業推進の方向を再確認させていただけるものです。数多くの対談記中から、「世界救世(メシヤ)教」開教後になされた内容を順次掲載いたします。

明主様(メシヤ様)と文学
メシヤ教の目標は最高の文化


=或る文士と御対談の中より=

(栄百八十三号 昭和27年11月19日)

去る十月十二日、某雑誌の特派記者として新進作家H氏が来訪し明主様(メシヤ様)には一時間余り、文学、芸術等に亘って種々有難い天啓を放たれ、H氏は文筆の上に新生命を入れて戴いたと讃歎を禁じ得ずして帰られた。記者も傍聴の栄に浴し、今更乍らに明主様(メシヤ様)の偉大なる御構想の一端を窺い知り、心悸躍動を禁じ得ず、其(その)時の速記の中より文学に関するもののみを集録し皆様と共にお蔭と喜びを分ち戴きたいと思います。

H氏 貴方は大変美術を愛好していられますが、美術学校にでも行かれたのですか。

 明主様(メシヤ様) そうです。美術が非常に好で、それで段々宗教をやっている中に、矢張り宗教とは関係があると言う事が分ったのです。

 H氏 文学は如何でしょうか、中々良い文章をお書きになって居られますが、みんな貴方がお書きになられたのですか。

 明主様(メシヤ様) みんな私が書くんです。だから忙がしくて仕様がないのです。

 H氏 商売人でもあんなに書けませんね。

 明主様(メシヤ様) そうですか。それは私は宗教と言うのを出来る丈分りやすく書こうと思うので、むつかしい処があります。普通の見たまま感じたままを書くのなら簡単なのですが・・・深い処を極く平易に書くので、そこに苦心が要るのです。

H氏 文士連中も、一宗の教主と言う方に力瘤を入れて戴けば、みんな活きていきます。

 明主様(メシヤ様) ですから私は文学でも芸能でもやってます。

H氏 そうしますと、文士を五人でも十人でも連れて来ますから息を吹きかけて戴き度いと思います。

明主様(メシヤ様)  日本の文学の一番の欠点はスケールが小さいと言う事と、主張がない事です。売らん哉主義です。唯売れて金になって儲かればよいと言う非常にレベルが低いのです。何か社会の欠陥とか、政治の欠陥とかに対して一つの主張を以って動かすとか、それを攻撃すると言う骨がないのです。大体日本の文学はその点に於て西洋に非常に劣っています。

H氏 私が非常に嬉しく思った事は、宗教家に芸術を理解して戴いたと言う事です。宗教家と言うのは芸術には余り関心がないと言うのが定石の様ですね。

 明主様(メシヤ様) 木石みたいなのが多いのです。つまり神様臭くなってしまってね。

 H氏 我田引水みたいですが、国が亡びても芸術と宗教は残るのではないかと思いますが如何でしょうか。

 明主様(メシヤ様) 勿論そうですね。私は時間に余裕がないので、一つ一つ読む事は出来ないから、僅かに映画で渇を医しているのです。ですから一晩置に必ず映画を見ています。外国のと日本のと両方見ていますが、将来映画は非常に大きな役割をすると思います。

 H氏 メシヤ教と言うのは非常に文化性をもっている宗教ですね。私は宗教は余り知りませんが、兎に角殆んどの宗教は文化性がないようですね。

 明主様(メシヤ様) そうです。私が言うとおかしいですが、私は宗教に興味がないのです。メシヤ教の目標は、最高の文化です。寧ろ文化を指導する位の権威がなければならないのです。処で現在は宗教の方で時代に迎合したり、自分から文化より低い様に、科学より低い様に思ってやっていると言う事が大変な間違いです。ですから大抵の宗教と言うのは病院を作っているのです。併し、私の処は作らないのです。若し病院を作るとするならば、その宗教が科学に負けている事になります。処が私の方は科学より上だから、病院は作らないのです。つまり宗教は最高の科学です。宗教は霊的科学です。今の科学と言うのは唯物的科学ですから、どちらも科学と言えるのです。只唯物的に進むのと唯心的に進むのとの違いです。一方は目に見えるものを対象とする科学で、私の方は目に見えないものを対象とする科学です。ですから病気でも医者よりもズッとよく治るのです。何でも四年とかの盲目で五分間で目があいたと言うのがありました。キリストの奇蹟位訳ないです。私の弟子がキリスト位です。それで最近私はアメリカの病人を調べさせたのですが、その報告をきくとアメリカの病人は大変なものです。現在医者に御厄介になっている者は千七百万人で、全人口の約一割以上が病人という訳です。それはアメリカが非常に間違った事をやっているから病人が殖えるのですが、それを私は「アメリカを救う」という題で書いています。之を翻訳してアメリカの大統領、有識者、医学界、病院に配ってやろうと思っています。日本にも新聞広告をして出します。

 H氏 同時に海外に御布教と言う様なお考えはおありなのですか。

 明主様(メシヤ様) 勿論あります。世界メシヤ教と言って、世界がつくのですから、それで大体外国を救うと日本人を救う事になります。日本人は舶来でなければ有難がらないですからね。ですから私は米国に宣伝しようと計画してます。日本人相手でなく、米国人相手です。日本人は自分自ら劣等感が非常にあるのです。処が私は逆です。本当の日本人は一番偉い、素質は生来立派なものだと思っています。それから大体米国で日本を救うと言う本が出たのなら良いですが、日本人が米国を救うと言うのですから之丈でも日本人の劣等感を大いに医す事が出来ると思う。それで米国の医学の間違いをすっかり書きました。そうしてみんな実例を挙げて書きましたから、相当センセーションを起すと思います。

 H氏 話は元に戻りますが、私が小説を書く時、インスピレーションと言いますか、後で二度とは書けない様な智慧が浮んで来るのを感ずる事がありますが、それで私は仕事をするのに一番いいのは夜中です。みんなが寝静まった時にやっていると、丁度、神と二人でやっているという気持がします。

 明主様(メシヤ様) 私も好いものを書く事が出来るのは十二時から二時までです。

H氏 そういう意味で作家はよく神を知っていますね。

 明主様(メシヤ様) つまり、作家は可成り上の処まで行っているのです。それで日本の作家はもう一息上に行くと良いが、みんな止ってしまうのです。西洋の作家ユーゴーとか、トルストイとかの不朽の名作は人類に対する感化力が非常にあるのです。そう言うものは日本の小説にはないのです。唯単なる恋愛的心理描写とか、私小説とか、唯娯楽本位と言う様なもので、兎に角つまり超人的なものはないのです。例えてみれば、ジャンバルジャンとかああ言った超人的の傑作を書いて貰い度いです。

 H氏 私が文学をやる根本の理由は斯うなのです。若し間違っていたら訂正して戴き度いのですが、文学は世の中から美を抜き出す事だと思います。美と愛と光の三つをあらゆる森羅万象の中から抜き出してそれを表現するのが私の任務だという事を考えて居ります。

 明主様(メシヤ様) 結構ですね。

H氏 それでそれを主張して文学の主流から離れて来たのですが、生活の為にはエロ文学とか、ああ言うものを書かざるを得ない時もありました。

明主様(メシヤ様) それは何でも書いて良いんですが、併しそればかりではおしまいです。一つ大いなる作品を残さなければならないのです。それは精神美です。ですから通俗小説でも吉川英治君が書いている宮本武蔵は可成りな処へ行っています。

 H氏 あれは宗教的ですね。宮本武蔵というのが宗教家なのですね。

 明主様(メシヤ様) 宮本武蔵と言うのは偉いです。何故偉いかと言うと絵が旨いのです。宮本武蔵の絵画と言うのは日本では沢山ありません。大変な名人です。そうすると剣を持つ人間が筆があれ丈出来ると言う事は普通の人間ではないです。

 H氏 それでは佐々木小次郎が負けると言う事は当然ですね。佐々木小次郎はそこまで行って居りませんからね。

 明主様(メシヤ様) そうです。高さがないからです。高さが違うのです。矢張り剣でも筆でもレベルがありますからその高さに到達する事です。ですから私は庭園でも建築でも最高のものを造るというのはレベルが上だからです。

 H氏 結論的になりますが、非常に厳しい修養の結果到達されたと言う事が言えますが、先生の場合にはそう言う閃(ひらめ)きにはどう言う修養をなされたのですか。

明主様(メシヤ様) それには随分修行しました。その修行と言うのは滅多にないでしょう。

 H氏 長い間どうも有難うございました。

 

≪解説≫
「電子の浄霊」という思いが突き上げ

メシヤ教代表 楳木和麿

「主神様とメシヤ様について」を発刊

現在、メシヤ様が残された全御論文、全問答形式御教え、全御講話、全詩歌をDVDに収めるべく作業を進めていただいています。御教えの全てが収められるのは勿論のこと、検索機能が付加されます。また、『御教え集』や『御垂示録』で御論文の朗読という表記があり御論文名が記されていますが、その御題をクリックすればその御論文が表示されるようにします。非常に拝読しやすく、研讃しやすくなっています。来年2月の「開教六十周年記念祭」には間に合うと思います。

その完成に先立ち、「主神様とメシヤ様」という資料作成にも着手していただいています。御教えの中で『主神』様、『メシヤ』様を検索した場合にヒットする内容を抜粋して編纂したものです。一切解説を加えずに、ありのままの文章を目にしていただこうという願いで作業に当たっていただいています。12月23日発刊の予定です。

編纂にあたり、改めて私達が御教えを拝読させていただく際の姿勢を確認させていただく意味で、蛇足ではありますが「はじめに」という私の解説を掲げてあります。これから全ての御教えに触れていただく皆さんへの、深奥なる真理に遭遇する旅とも言える研鑚に対する餞(はなむけ)と受け取っていただければ幸いです。

まず、メシヤ様の御姿勢を見つめさせていただきますと、昭和元年に人類救済の御啓示があってから直ちには大任を引き受けられませんでした。有史以前の宇宙や地球の成り立ちから未来における啓示内容を全て検証するために5年有余を費やされているからです。そして、確証を得られてから『救世主』の大任を受ける御決意を固められて、鋸山での『夜昼転換』の御神事に臨まれました。

しかし、すぐには御立教されていません。それは万人を救済する方法の確立がなされていなかったからです。大本教時代に会得した鎮魂帰神法では万人を救済することは困難であり、それは何故なら鎮魂帰神法は霊的修行を積まねば会得できないところがあるからです。修業中にともすると発狂する事態も招きかねないのです。そうした理由から、メシヤ様は誰でも希望すれば救済力を身に付けることのできる浄霊法を編み出されたのです。

メシヤ様は大本教時代を『霊的修行』の時代と位置付けられると共に、大本教は御自らが世に出るための『産婆役である』と仰られているのも、そうした理由が拝察されます。浄霊法を確立されてからの御立教だったのです。

こうしたところに慎重を期す御姿勢が偲ばれると共に、『可能な限り全人類を救済する』というメシヤ様の御情熱が強く迫って参ります。

ところが、慎重であられるが故に、御啓示を書きとめた便箋は焼却されています。それは皇室に関わることが膨大な量を占めており、国体に関することもあり、大本教弾圧の理由に類する内容と受け取られかねないと御判断されてのことです。ここに、御教えを拝読させていただく際に留意しなくてはならない点があるのです。

つまり立教当初は宗教弾圧を避けるために御発言に細心の注意を払われ、第二次世界大戦終了までは“不敬”と受け取られる可能性のある表現を避けられてもいます。また、終戦後信教の自由が認められても、顧問というお立場でおられました。日本各地で米国進駐軍の衛生担当官の誤解による弾圧が続いていたのです。

教主として表に出られたのは、昭和25年2月4日に「世界救世(メシヤ)教」を開教された時点なのです。しかし3カ月後に御法難に見舞われ、内外の障壁が立ちはだかりました。御論文や御講話の表現内容から、実質的に気兼ねすることなく歯に衣を着せぬ御発言ができたのは昭和27年頃からと拝察できます。

そうしたことを考慮して、『世界救世(メシヤ)教開教後の御教え』と、『昭和25年以前の御教え』の二部構成で編纂してあります。第一部に「世界救世(メシヤ)教」開教後の御教えを、第二部に開教以前の御教えをそれぞれ出版物ごとに収録します。

『如何にしたら万人に理解してもらえるか』という御心の現われ

次に、御教え拝読に取り組む際に心得ていただきたいことがあります。

御教えの御執筆に関して先達から聞き及んだ内容は神秘に満ちておりました。御論文は口述筆記により原稿を作成され添削を繰り返されております。その口述筆記の際は、メシヤ様は頭頂部の後ろ側を自己浄霊されてから担当者に前回口述した最後の2~3行を読み上げさせられました。そして『よしっ』と仰ってから朗々と口述されたそうです。

「まるでテープレコーダーのようでした」と言わしめるものでした。まさに神業(かみわざ)であり、御教えが『神の言葉』そのものである所以(ゆえん)でもあります。

そうして、口述された御論文にはメシヤ様による添削が繰り返されました。朱の入れられた原稿が資料として今も残されています。添削は『如何にしたら万人に理解してもらえるか』というメシヤ様の御心の現われです。『神の言葉』をより解り易くするための御心が幾重にも注がれており、そのことからも御光に満たされていることが判り、感謝に堪えません。

作業に当たる担当者の報告として驚くことは、「光が強くて溶かされるようです」という言葉です。御教えは膨大な量のために作業は大変なのですが、御光が強いあまり浄化をいただき「そんな時は作業を一時休止しなければならない場合がありますが、有難いことです。」とよく口にします。私はその話を耳にするたびに感謝の念が湧いてまいります。

そして、御教え拝読によって御守護いただいた経験を持つ私は『活字の浄霊』ということが刻まれておりますが、この一連の報告から『電子の浄霊』だという思いが突き上げてきました。

また、担当責任者は自営業を営んでおりますが、大黒様のお働きが大きいことも加えて業績がより順調になったそうです。この不況下にです。人材にも恵まれ編纂作業の時間が効率よく生まれているようです。

そして最も顕著なのが浄霊力の強化です。9月に各地でお話した「卵巣膿腫が7cmもあったのに、15分間の御浄霊で2cmになった」というお蔭話の浄霊取り次ぎ者ご本人です。

【卵巣膿腫が7cmもあったのに、15分間の御浄霊で2cmになったという報告がありました。これもその内手記を書いていただこうと思っています。まだ未入会の方ですので、時期を見てということになります。これは、医者から手術を勧められており、浄霊をいただいた翌日が最終的な結論を出さねばならない検査日だったのです。それが、2cmになっていたというので、医者から「手術をしなくても良い」と言われ 大変喜ばれたそうです。そして、最も驚き、感謝をされていたのが浄霊を取り次いだご本人です。(「メシヤ講座・三重 no.23 9月」より)】

こうした御守護を目の当たりにするごとに、御論文にはメシヤ様の『可能な限り全人類を救う』という御心が隅々まで行き届いていると感じます。また、今回の事例だけではなく御守護報告された方々は御教え拝読を不断に心掛け実践に努めているのです。そうしたことから、改めて浄霊と御教え拝読が信仰生活の要であることを再確認していただきたいのです。

普遍性と時代性、資料出版の主眼

さらに、質疑応答形式の御教えが収録されていますが、メシヤ様がお答えになられている内容は質問者に向けてのものであり、必ずしも普遍性があるということではありません。それ故に、質問内容をよく読まねば御教えの内容も勘違いしてしまうことがあります。

当然、質問者に限らず上司の支部長や教会長へ向けてお答えになっているものや、信者全員へ向けてお答えになられているものもあります。また、大半が速記によるものですから聞き漏らしも発生していることは容易に想像できます。しかも御論文以外は添削なされてないように見受けられます。そうした状況下で残された御教えもあるという含みを持って、幾重にも留意して拝読させていただくことが大切です。

また、、メシヤ様は情報収集を常にされて、それに対する判釈を示すことを心掛けられたことが拝察できます。次に引用する御講話では気温上昇に触れられており、現代人が遭遇する温暖化の問題と照らし合わせると、深い思考に誘われます。

『この間ラジオで聞いたのですが、スエーデンのハルマンという学者が調べたところによると、地球は50年間に温度が10度増えたというのです。これはたいへんな話です。この50年間というものは、いままでにない温度の増え方です。もし昔にそういうことがあると、500年で100度増えることになるからたいへんな話です。50年間に10度増えたということは、いつも言う通り火素が増えて昼の世界になったということの物質的現われです。無論火素は霊的のものですが、しかし物質的にもそうとう影響はあるのです。よくお蔭話にあるが、私がこう(御浄霊)やると非常に温かいというのです。中には汗をかく人もある。つまり霊ばかりのものであるはずだが、いくぶんか影響があるわけです。だから50年間にそのくらい増えたとすると、なにかに影響がなければならない。そうみてくると大いに影響があるのです。・・・(御教え集14号・昭和27年9月6日御講話より抜粋)』

時代性に基づいてどのように御垂示されたのか、を考える際に心得ていなくてはならないのが情報収集への御努力です。また、御原稿の添削に掛ける御心と相俟って、科学の進歩に応じて主神様の御経綸の理解度が増すことを踏まえてお説きになるからこそ、情報収集が重要でもあるのです。

そして、仮にメシヤ様が現在御在世であったならば現代社会をどのようにご覧になられるかを模索する時に、やはりメシヤ様を神習って情報収集に当たらねばなりません。メシヤ様のご精神を現代に求める姿勢とは、そうした努力の生活なのです。

最後に、メシヤ様は御自らのお立場から『主神』『メシヤ』という表現を用いておられますが、私達は「主神様」「メシヤ様」とお呼び申し上げるようにしなくてはなりません。そうしなければ錯覚や勘違いを起こすからです。御教えを拝読する私達自身に隙が生じないように、自らを守るために心掛けていただきたい最重要事項です。

それが「主神様とメシヤ様」と題する資料の主眼でもあります。

そうした姿勢を確認するかのごとく各地で質問がありました。その中から、特に参考にしていただきたいことをピックアップして転載します。

信仰の根幹となる内容を取りまとめ、出版の作業に当たっていただいている三重支部において貴重な質疑応答がなされました。また、浄霊の奇蹟が顕著であるが故に逆に深まる怠惰な姿勢が発生した現象を精査すれば、是正のためには御教え拝読が不可欠なのですが、ブログ「日月地」でそのことがテーマの一つになりました。

主神様への祈りについて―【メシヤ講座・三重から引用】

(質問者)
主神様への祈りはどのように・・・

(先生)
主神様には「全宇宙のご経綸にただただ感謝申し上げますと共に、真善美完き恒久平和の理想世界実現を謹んでお祈り申し上げます。」とお祈りし、辞別(ことわ)けてメシヤ様に人間的なお願いをいたします。

人間的なお願いをするということは、

『表現し奉る言辞もなく、文字もなく、ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかないのである』

このようなご存在である主神様を人間の方へ引き下げてしまうことに繋がりますので、主神様には直接的なお願いはしないのです。

(質問者)
全宇宙の御経綸に感謝するとは・・・

(先生)
太陽系が滞りなく運行していることに対する感謝。私達が此の世に生存を許されていることに対しての感謝。などなどです。「真善美完き恒久平和の理想世界実現」とは地上天国ができるようにお祈り申し上げるのです。

宇宙の運行がわかったのは近代になってからです。主神様の御存在はこれまでの科学の進歩では理解できないのです。「宗教と科学が一致」するには科学が進歩しない限りあり得ないのです。そして、私達は宗教に携わるからには科学のことを良く知っていなければなりません。そういうことでいえば女性の方がより理解することができるのですよ。

(質問者)

なぜ女性が理解できるのですか?

(先生)
卵→魚→爬虫類→哺乳類、というように水中動物から陸上動物へと進化していく過程で体験的にすべてを知っているのです。体験しているところへ知識が加わることによって「体得」となるのです。悪阻(つわり)は水中動物から陸上動物へ変化する時期に起きます。そうしたことを知るだけで胎児への思いが変わって来ます。出産までの10カ月間で38億年前の生命の誕生からの進化の過程を経て誕生してくるのです。そして、最後に高度な神経ができて人間となるのです。

【以前の「メシヤ講座・特選集」より抜粋】

「浄霊力が強化されていることを活用するために、認識を新たにしていただきたいことは『私達の肉体はどういうものか』ということです。約38億年前に地球に生命が宿って進化を遂げ、最後に出現したものが人間です。ですから、人間は地球上の生命の全てを包含した、言わば総合的な存在だということです。」
メシヤ講座・特選集八十(平成十九年九月分)

「およそ六百万年前にアフリカのジャングルから草原へ下りて来た類人猿がいたことになっている。木にぶら下がらなくなったので、やがて二本足歩行をするようになる。このことにより画期的な進化を遂げる。前足に脳を乗っけているうちは脳自体を大きくできなかったが、二本足歩行をすることにより脳を後ろ足へ乗っけるようになると、脳を大きくすることができた。また、呼吸法も変わり、そのお蔭で言葉を発することができるようになったのである。この言葉を持つことにより、思考するようになった。利便性を図る道具を考案することもできるようにもなったが、何と言っても、死を悼み、死者を弔うことを行なうようになった。これが人類の始まりであり、動物との決定的な違いである。人間生活が宗教の場なのである、という所以である。」
メシヤ講座・特選集七十三(平成十九年二月分)

浄霊と御教え拝読は不可分―【ブログ「日月地」から引用】

楳木先生  これは、浄霊の原理をしっかりと学んで行けばわかる事なのですが、「曇り」というものが発生して、その「曇り」を浄霊によって浄めて行く事によって、健康を確保したり、精神的に、明るく、楽になって行くとか、問題が解決して行くという事を許されて行くのだけれども、その一番根っ子には「霊の曇り」があります。その「曇り」を浄めて、一旦元気になったり、問題が解決しても、また同じ「曇り」を発生させる様な生活をして行くと、元の木阿弥になって、浄霊をすれどもすれども「良くなったり悪くなったり」を繰り返す事になります。神様の御力によって問題が解決し、病気が良くなった後に、二度と同じ問題、同じ病気を起こさない為に、「霊の曇り」が発生しない様な生活をして行く様に指導する事、それが信仰指導で、その指導に沿って生活する事が、本当の信仰生活なのだという事を認識しておかなければなりません。

matsuki  生活、環境を改めないで、「浄霊すれば大丈夫」という間違った認識の下、「浄霊」を利用するのは神様に対して大変失礼な事の様に感じます。一見信仰的な様で、実は神様の力にぶらさがろうとしているだけとでも申しましょうか。

楳木先生  世界救世教の一番の問題点は、「浄霊」で大変な奇蹟を頂くのだけれども、その事によって生活が改まっていかない人が多いという事です。 だから、結局同じ事を繰り返して行ってしまう。これは御教え拝読が不足していることと指導力がない為に起きているのです。

matsuki  例えば、心臓が悪くなる原因の中に、「対立の意識」があるというお話を頂きまして、これは註・「メシヤ講座・浜松」参照)大変わかりやすかったです。二度と心臓を悪くしない為には、人を批判したり、対立軸に置いたりする「争い」の意識を改めなければなりません。私の場合は、肺が病気になる事が多いのですけど、この原因は、頭の使い過ぎか、肉体的過労であると教えて頂きました。であれば、浄霊で肺を治して頂いた後には、そういった生活環境を改めていかないと、何度も肺を患う事になり、結局問題解決には至りません。

楳木先生  御守護というものを捉えた時に、「浄霊をして良くなった」という事は第一段階の御守護です。第二段階の御守護は、その原因をつきつめて行って、原因がわかって、そして、その原因を改善して行って、素晴しい生活が出来るという事が、本当の御守護なのだと、そういう段階を踏んで行くという事をわかっておかなければなりませんし、各指導者が、そういう事をより認識出来る事が大切です。

matsuki  例えば、私は、以前仕事で無理をして、体調を崩し、入院しなければならない状況になった事があります。そして、医者ではどうにもならず、入院している意味がないので、自己申告により退院して、その後、たった40分の浄霊の奇蹟によって救われました。一生残ると言われていた右肺の影が綺麗に取れており、肺の専門医も「これはあり得ない事だ」と驚いていました。その後、仕事も変わり、一旦は健康になったのですけど、次の仕事でも、また労働条件が過酷になって行くと、同じ事を繰り返す可能性が出て来る訳です。

楳木先生  この話では、matsukiさんは、結局その会社を退社して次の環境に変わった訳ですけれど、当時の会社の管理者であれば、二度と同じ様な入院騒ぎが起きない様な環境を整えて行く責任があります。また、信仰生活の上でも、そういった指導が出来ない布教師は失格者と言えます。

matsuki  もし布教師の立場で、「浄霊すれば大丈夫ですよ」という指導しか出来なければ、一見信仰的な様で、結局それは信仰にぶら下がっているだけで、成り行き任せとしか考えられず、奇蹟に対して失礼だと思います。

楳木先生  最も解り易い事例としては、酒飲みが、お酒を飲み過ぎて、肝臓を悪くして入院する、そして、御浄霊を頂いて良くなった、そして、また同じ量の酒を飲むという生活です。それと何ら変わりはありません。

matsuki  本来であれば、酒を飲まなくなるか、酒の量を減らして適度な飲み方になるというのが自然の姿ですね。

楳木先生  そうして、身体を壊す程飲まない生活になった事が、本当の御守護で、病気が良くなった事は入口みたいなものです。生活が改善される。また、こうした御力は何処から来るのだろうか、と探求して御教え拝読に取り組む。そして、それを生活に実践してみる。そうしている内に人生観が変化してゆく。メシヤ教では、信徒の皆さんに毎朝『神格をいただく道』という御教えを拝読して頂いているのですが、メシヤ様が示された課題に取り組み、一つずつ身に付いてゆくのが実は本来の御守護なのです。

matsuki   「病貧争」をなくす為の取り組みが地上天国建設への取り組みであるのに、御神業の名の元に逆をやる組織の方が多いのです。無理をして病気になる、経済的に苦しくなる、そこで不平不満が噴出して争いが起こる。争いが起こると、お互いに相手側に対して「邪神」が憑いたなどという心ない発言をする。正しい理想を掲げている様で、一旦対立軸に立って正邪を立て分ける様な意識を持ってしまうと、組織として崩壊して行ってしまいます。どうも、組織の上の立場の方が、そういう発言をするケースが目立ちます。被害者は、何も知らない信者さんなのですけどね。

楳木先生  人に対して「邪神が憑いた」などという発言をする事は、物を突き詰めて考えていない、あるいは、真実を知らないが為に、噂や憶測でそういう発言をする人が多い訳ですから、そういう話には、絶対に相槌を打ったり、巻き込まれたりしない様に、心して取り組んで頂きたい。そして、浄霊により奇蹟を頂いたら、その曇りの原因を突き詰め、理解した上で取り除き、正しい信仰指導による、本来の信仰生活を送って頂きたいと思います。

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