メシヤ講座・特選集no.74(平成19年3月分)

<御教え>
文明の創造
(文創 昭和二十七年・未定稿のまま)
総篇

天国建設の順序と悪の追放

抑々(そもそも)此(この)世界を天国化するに就(つい)ては、一つの根本条件がある。それは何かといふと、現在大部分の人類が心中深く蔵されてゐる悪の追放である。それに就(つい)て不可解な事には、一般人の常識からいっても悪を不可とし、悪に触れる事を避けるのは勿論、倫理、道徳等を作って悪を戒め、教育も之を主眼としてをり、宗教に於ても善を勧め、悪を排斥してゐる。其(その)他社会何れの方面を見ても、親が子を、夫は妻を、妻は夫を、主人は部下の悪を咎め戒めてゐる。法律も亦(また)刑罰を以て悪を犯さぬやうにしてゐる等、之程の努力を払ってゐるに拘はらず、事実世界は善人より悪人の方が多く、厳密に言へば十人中九人迄が、大なり小なりの悪人で、善人は一人あるかなしかといふのが現実であらう。

併し乍ら単に悪人といっても、それには大中小様々な種類がある。例へば一は心からの悪、即ち意識的に行ふ悪、二は不知不識無意識に行ふ悪、三は無知故の悪、四は悪を善と信じて行ふ悪等である。之等に就(つい)て簡単に説明してみると斯うであらう。一は論外で説明の要はないが、二は一番多い一般的なものであり、三は民族的には野蛮人、個人的には白痴、狂人、児童等であるから問題とはならないが、四に至っては悪を善と信じて行ふ以上正々堂々として而も熱烈であるから、其(その)害毒も大きい訳である。之に就(つい)ては最後に詳しくかく事として、次に善から見た悪の世界観をかいてみよう。

前記の如く現在の世界を大観すると、全く悪の世界といってもいい程で、何よりも昔から善人が悪人に苦しめられる例は幾らでも聞くが、悪人が善人に苦しめられる話は聞いた事がない。此(この)様に悪人には味方が多く、善人には味方が少ないので、悪人は法網を潜り、堂々世の中を横行闊歩するに反し、善人は小さくなって戦々兢々としてゐるのが社会の姿である。此(この)様に弱者である善人は、強者である悪人から常に虐げられ、苦しめられるので、此(この)不合理に反抗して生れたのが彼の民主々義であるから、之も自然発生のものである。処が日本に於ては長い間の封建思想の為、弱肉強食的社会が続いて来たのであるが、幸ひにも外国の力を借りて、今日の如く民主々義となったので、自然発生と言うよりも、自然の結果といった方がよからう。といふやうに此(この)一事だけは、珍らしくも悪に対して善が勝利を得た例である。併し外国と異って日本は今の処生温(なまぬる)い民主々義で、まだまだ色々な面に封建の滓(かす)が残ってゐると見るのは私ばかりではあるまい。

茲(ここ)で悪と文化の関係に就(つい)てかいてみるが、抑々(そもそも)文化なるものの発生原理は何処にあったかといふと、根本は善悪の闘争である。それは古への野蛮未開時代からの歴史を見れば分る通り、最初強者が弱者を苦しめ、自由を奪ひ、掠奪殺人等恣(ほし)いままに振舞ふ結果、弱者にあってはそれを防止せんとして種々の防禦法を考へた。武器は固より垣を作り、備へをし、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、凡ゆる工夫を凝らしたのであって、此(この)事が如何に文化を進めるに役立ったかは言う迄もない。それから漸次進んで人智は発達し、文字の如きものも生れ、集団的契約を結ぶやうになったが、今日の国際条約の嚆矢(こうし)であらう。尚社会的には悪を制圧するに法や罰則を作り、之が条文化したものが今日の法律であらう。処が現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかった。寧ろ人智の進むにつれて悪の手段が益々巧妙になるばかりである。といふやうに人類は原始時代から悪の横行とそれを防止する善との闘争は絶へる事なく今日に至ったのである。然しそれによって如何に人智が進み文化が発展したかは知る通りであって其(その)為の犠牲も亦(また)少なくなかったのは亦(また)止むを得ないといふべく、兎に角現在迄は善悪闘争時代が続いて来たのである。処がそれら善人の悩みを幾分でも緩和すべく、時々現はれたのが彼の宗教的偉人で、其(その)教の建前としては物欲を制限し、諦観思想を本位とし、従順を諭へると共に、将来に希望を有たせるべく地上天国、ミロクの世等の理想世界実現を予言したのである。又一方悪に対しては極力因果の理を説き、速かに悔ひ改めるべく戒めたのは勿論で、それが為幾多の苦難に遭ひ、血の滲むやうな暴圧に堪へつつ教へ弘通した事蹟は、涙なくしては読まれないものがある。成程之によって相当の効果は挙げたが、然し大勢はどうする事も出来なかった。又反対側である無神主義者の方でも学問を作り、唯物的方法を以て悪による災害を防ごうとして努力した。其(その)結果科学は益々進歩し、文化は予期以上の成果を挙げたのである。然るに一方思はざる障碍が生れたといふのは、右の如く進歩した科学を悪の方でも利用するやうになった事である。

先づ戦争を見ても判る通り、兵器は益々進歩すると共に、凡てが大規模になりつつある結果生れたのが彼の原子爆弾である。之こそ全く夢想だもしなかった恐怖の結晶であるから、此(この)発見を知った誰もは、愈々戦争の終焉の時が来たと喜んだのも束の間、之を悪の方でも利用する危険が生じて来たので、不安は寧ろ増大したといってもいい。とはいふものの結局戦争不可能の時代の接近した事も確かであらう。之等を深く考えてみる時結局悪が戦争を作り、悪が戦争を終結させるといふ奇妙な結果となったのである。斯う見てくると、善も悪も全く深遠なる神の経綸に外ならなかった事はよく窺はれる。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も、心からの悪人は別とし、共に平和幸福なる理想世界を念願してゐるのは言う迄もないが、只問題は果して其(その)実現の可能性がありやといふ事と、ありとすれば其(その)時期である。処がそれらに就(つい)ての何等の見通しもつかない為、人類の悩みは深くなるばかりである。そこで心ある者は怪疑の雲に閉されつつ、突当った壁を見詰めてゐるばかりであるし、中には宗教に求める者、哲学で此(この)謎を解こうとする者などもあるが、大部分は科学の進歩によってのみ達するものと信じ努力してゐるが、之も確実な期待は得られそうもないので、行詰り状態になったゐる。処が現実を見れば人類は相変らず病貧争の三大災厄の中に喘ぎ苦しみ乍ら日々を送ってゐる。処が之等一切の根本を神示によって知り得た私は、凡ゆる文化の誤謬を是正すべく解説するのである。

前記の如く悪なるものが、人間の不幸を作るとしたら、神は何故悪を作られたかといふ疑問である。然し此(この)様な不可解極まる難問題は、到底人智では窺ひ知る由もないから、諦めるより致し方ないとして、宗教は固より如何なる学問も、今日迄之に触れなかったのであらう。然し何といっても之が明かにならない限り、真の文明は成立される筈はないのである。そこで之から其(その)根本義を開示してみるが、実は現在迄の世界に於ては悪の存在が必要であったので、此(この)事こそ今日迄の世界の謎でしかなかったのである。そうして悪の中で最も人間の脅威とされてゐたものは、何といっても生命の問題としての戦争と病気の二大災厄であらう。そこで先づ戦争からかいてみるが、戦争が多数の人命を奪ひ、悲惨極まるものであるのは今更言う迄もないが、此(この)災厄から免れやうとして、人間はあらん限りの知能を絞り努力を払って来た事によって、思ひもつかない文化の発達は促進されたのである。見よ勝った国でも負けた国でも、戦争後の目覚ましい発展振りは如何なる国でも例外はあるまい。仮に若し最初から戦争がないとしたら、文化は今以て未開のままか、さもなくば僅かの進歩しか見られなかったであらう。そのやうにして戦争と平和は糾(あざな)える縄の如くにして、一歩一歩進んで来たのが現在迄の文化の推移である。之が又社会事情にも人間の運命にも共通してゐる処に面白味がある。之によって之をみれば善悪の摩擦相剋こそ、実は進歩の段階である。

斯うみてくると、今日迄は悪も大きな役割をして来た訳になる。といっても悪の期間は無限ではなく限度がある。それは世界の主宰者たる主神の意図であり、哲学的に言へば絶対者とそうして宇宙意志である。即ちキリストが予言された世界の終末であり、そうして次に来るべき時代こそ、人類待望の天国世界であり、病貧争絶無の真善美の世界、ミロクの世等名は異るが意味は一つで、帰する処善の勝った世界である。此(この)様な素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。準備とは精神物質共に、右(上記)の世界を形成するに足るだけの条件の揃ふ事である。処が神は其(その)順序として物質面を先にされたのである。といふのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるからで、それに反し物質面の方はそう容易ではない。非常に歳月を要すると共に、其(その)為には何よりも神の実在を無視させる事である。之によって人間の想念は自然物質面に向く。茲(ここ)に無神論が生れたのである。故に無神論こそ実は悪を作る為の必要な思想であったのである。斯くして悪が生れ、漸次勢を得て善を苦しめ争闘を起し、人類をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は這上らうとして足掻くのは勿論、発奮努力によって苦境から脱れやうとした。それが文化発展に拍車を掛けたのであるから、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。

以上によって善悪に就(つい)ての根本義は大体分ったであらうが、愈々茲(ここ)に悪の追放の時が来たので、それは善悪切替の境目であるから、悪にとっては容易ならぬ事態となったのである。右(上記)は憶測でも希望でも推理でもない。世界経綸の神のプログラムの現はれであるから、信ずると信ぜざるとに拘はらず、右(上記)は人類の決定的運命であって、悪の輪止りであり、悪が自由にして来た文化は、一転して善の手に帰する事となり、茲(ここ)に地上天国樹立の段階に入ったのである。

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「景仰」を如何様に拝読するか(11)

メシヤ教 代表  楳木和麿

『起きたらまっさきに私に挨拶を』の項

≪本文≫

昭和二十五年ごろ、私はまだ「おひかり」をいただいておらず、ある会社に通っていましたが、土曜日から箱根へ行って、明主様(メシヤ様)の所へ一晩泊めていただくことがよくありました。

そして翌日、つい寝坊してしまい、洗顔もそこそこに出て行きますと、明主様(メシヤ様)はもう日光殿のご講話を終わられ、ブラブラと帰って行かれるところだったということが、何度もありました。

そういうとき、明主様(メシヤ様)は、『ねぼけまなこでもいい。起きたらまっさきに私に挨拶すればいい』とおっしゃいました。

いまとなっては全く恥ずかしい思い出ですが、明主様(メシヤ様)は一度もいやな顔をされませんでした。

あるとき、「若いのに寝坊して申しわけありません」とお詫びしましたら、明主様(メシヤ様)は、『なにを言ってるんだ。きみより私の方が若いよ。私の方が若いから早く起きるんだ。きみは年をとっているから寝坊するんだ』と笑って言われたことがありました。 (親族)

≪解説≫

この文章は、『特別扱いはいやだ』と『挨拶は何度でもよい』の項に挟まれる構成で編集されています。両項も併せて拝読すると、メシヤ様が挨拶についてどの様にご指示されたかを窺い知ることができます。側近者には側近者のように、信者には信者のように、未信者には未信者のように挨拶について説かれています。

そして、メシヤ様への挨拶が朝夕拝の原点なのです。

御前にメシヤ様がご鎮座されていると拝すれば、自ずと御神前の佇まいや自分の姿勢、祝詞の発声が整ってまいります。しかもそれは、信仰の深まりと共に変わってまいります。

例えば、御教えでは挨拶する場合の方向について述べられている項があります。『大抵の人は部屋へ入りお辞儀をする場合でもほとんど的外れである。壁へ向かってするもの、障子へ向うもの、庭へ向うもの等、実に千差万別である。』

メシヤ様は、そうしたことを絶えず注視されていましたので、私達も御神前の三宝の位置や向きというものに気を配ってゆかねばならないことになります。また、お花の位置もバランスよく置かれているのか、ということも大事になってきます。このように心掛ければ心掛けるほど、奥行きを伴ってまいります。

しかし、『ねぼけまなこでもいい。起きたらまっさきに私に挨拶すればいい』とおっしゃっています。メシヤ様はそれぞれの差を十二分に汲んでくださる、ということです。しかも『一度もいやな顔をされませんでした』とあります。

メシヤ様の御姿に求道心を掻き立てられます。

会話の原点

これは、さらには「挨拶が会話の原点である」という意味合いを再確認するべき、事例でもあります。

とかく家庭で会話が成り立たない、などという話題が多く聞かれますが、会話の原点は挨拶なのです。ですから、まず挨拶をする、ということを心掛けることが、家庭生活や職場、学校でも最重要課題なのです。例え忙しくて時間が取れなくとも、挨拶だけは交わしなさい、という実践徳目でもあります。

地域では、どなたとも挨拶を交わしているような場所では治安が維持される、とよく言われます。挨拶は大きな働きを持っているのです。

また、「街角では先に挨拶をした方が勝ちだ」とよく言われます。後で挨拶する場合は、一言添えなければならないからです。円滑な人間関係を築くために、そのように躾けられてきました。

その一面が、この文章にはユーモアたっぷりに綴られています。

言葉を練る

私達は挨拶というものを足掛かりに日常の言葉の使い方を考えさせられます。メシヤ様は『信者たるもの、常に魂を磨き、言葉を練り、上魂の人間たることを心掛けるべきである。』と、信者の課題を御教え下さっていますが、言葉を練る原点が挨拶であるのです。

その上に「嘘をつかない」という厳然たる姿勢が求められます。

そして『罵詈怒号のような声を聞いたり、愚痴や泣き言を聞かされたりすることが何よりも辛いのである。又一つ事を繰返し聞かれる事も随分辛い。どこ迄も平和的、幸福的で、これが私の本性である』とも述べられています。

ご承知のように『私というもの』という御教えです。この最後には『私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大されることと思っている』とあります。日々の課題とさせていただいたならば、きっと地上天国への道は開かれてまいります。

<資格者資料>
【教修第二講・世界救世(メシヤ)教とは】
メシヤ教

<共に拝読する>

第二講は、『開教の辞「世界救世(メシヤ)教の誕生に就(つい)て」』と『世界救世(メシヤ)教 教義』という御教えを共に拝読する、ということで十分である。

<拝読の仕方の工夫>

共に拝読して、相手の理解度に応じて補足を加える。真理を追究する作業なので、自分の信仰に懸けて対応する。

大切なことは、「なるほど」と理解を示した後である。次の段階として、自らに置き換えて拝読する習慣付けを目指す。御教え拝読というものを相手は初めて経験する場面なので、最初の取り組みで御教え拝読の方向性が決まってしまう。それだけに大切なのである。

御教え拝読は、真理を学ぶ、ということであるが、最大の願いは学んだ真理を生活に取り入れて実践し、幸福になってゆく、ということである。何故なら『生きている人間を幸せにしなければ何にもならない』と断言されているからである。

それ故に、『信仰即生活』という観点から御教えというものを拝読する場合、その内容を全て自分に置き換えてゆく、ということがもっとも大切な作業である。

<世界救世(メシヤ)教 教義>

「世界救世(メシヤ)教 教義」をトータルで理解していただいた後、自分に置き換えた場合にどのように読むことができるか、ということになる。

ここで例題を示すので、臨機応変に活用して考えてみていただきたい。

<抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである>

この部分を「そもそも我が家の先祖は」としたり「私の夫は」と置き換えてみると、「そもそも我が家の先祖は我が家を天国にするように・・・・・」とすることができる。また、「私の夫は結婚当初より我が家を天国にするように・・・・・」とすることもできる。

もちろん妻であっても、両親であっても、子供であっても、ご自分であっても結構である。

ここでは「私の夫は」として、各文章を当てはめてみると、まず「そもそも私の夫は、我が家を天国にするために私と結婚した当初から生活しつつあることを私は信ずるのである」と、することができる。

そのことを信じて結婚もしたのであるし、夫婦生活を営んできたのである。いかがだろうか。

<これに対して人間を神の代行者とされ給うと共に、一切万有は人間の為に造られたものである>

そうすると、「これに対して私を夫の代行者とすると共に、家事一切は代行者たる私のために用意されたものである」と続く。

煩雑な家事も雑務も全て「我が家を天国にする」ためにこなすのである、と受け止めているのである。

<故に今日までの人類史はその為の準備工作に外ならない事を信ずるのである>

「故に、今日までの夫婦の道のりも、結局は天国を造るための準備工作であった、と信じている」

それまで幸福感に満たされていたか、あるいは苦労の連続であったか、いずれにせよ「我が家を天国にする」ための準備段階であったのである。そのように受け止めている。

<従って、神はその時代時代に必要なる人間と、必要なる宗教を顕(あら)わし給い、それぞれの使命を遂行させ給うのである>

「従って、主人と共に子供を儲けて、共に人生の指針を得て生活してきた」

そうであるからこそ、「我が家を天国にする」ために、必要なる子供も許されたのである。しかもそれぞれの使命をいただいているので、時には親の言いなりにはならない場合もある、と考えることができるというような受け止め方になる。

また、ご近所の方も姑などもそれぞれ使命を持って存在している。皆役割を持って生活しているのである。

<後半 ― 信仰に出会った意義>

こうした受け止め方の上に後半を拝読すると、「我が家を天国にする」ためにメシヤ様とご縁をいただいた、という入信の意義がより明確になる。

つまり、まとめは「メシヤ様とご縁をいただくことで私が我が家の救世主となり、我が家を天国にするために精進邁進することを決心している」ということになる。

入信動機は様々ではあるが、また複雑多義に渉る背景がお互いにはあるが、「我が家を天国にする準備段階を経て来たからこそ、メシヤ様に出会うことが許されたのである」という認識を共有したい。

我が家の救世主となるためには、メシヤ様の御姿を鑑として追体験するように心掛けることが必要である。そのために、第三講のテーマはメシヤ様である。さらに学びを深めたい。

お世話とは、メシヤ様の愛に包まれていただくことである。それを可能にする重要課題は、御教えを自らに置き換えて拝読する、という姿勢を共に持つことである。重ねて肝に銘じていただきたい。

(次回は三講を掲載。)

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