メシヤ講座・特選集no.58(平成17年11月分)

<御教え>
宗教は一つもない
(1936年5月文創のまま)

八、治病の不能

既成宗教に於ては、宗教的治病は不可としてゐるが、之位怪しからぬ話は無いのである。それは、自己無能の糊塗でしかないのである。宗教は科学以上の存在と自惚れてゐるに不拘、病気を治し得ないといふ事は、科学所産の医学よりも劣るといふ自白である。科学以下の価値としての宗教は宗教ではない。先づ宗教に似た論理乃至道徳でしかなからふ。然乍ら彼等は曰ふのである。治病はしないが、人の霊魂を救のであると。然し之は立派な詭弁である。魂が救へば肉体は救えない筈がない。何となれば、魂と肉体とは別々の存在では決してない。両者は融合一致してゐるものであるからである。例へて言へば、肉体丈で心魂の無い人間はない。心魂丈で肉体のない人間もないのである。之位判り切った簡単な事すら盲目にされてゐる。

次に、新興宗教に於ては相当治療に専念し、又、その効果も多少あるにはあるが、是等も病気によっては治るといふ条件附きのもので、又、其(その)治病率も何パ-セントと実績を挙げ得るかといふ事すら、明確に示さないのであるから、其(その)効果は疑問たるものである。そうして、治癒しないものは信仰が足りないとか、行が間違ってゐるとかいふ言訳附きのものであるに於て、決して絶対力あるものではない事が解るのである。実際真の宗教治病力といふのは、治癒力百パ-セントでなくてはならない。そうして信仰が浅いとか深いとか、信ずるとか信ぜないとかいふ条件附きであってはならない。信不信、又は疑をもつ等は問題にならないのである。如何なるものでも、無条件で全治する程の絶対力があるこそ真宗教である。故に、此(この)条件に合致した宗教は恐らく一つもないのである。此(この)点に於て現在の新興宗教の治病などは、洵に微力なるものであるから、社会からインチキ視せらるるのも止むを得ないであらふ。

以上、八項目に分ちて解説せる宗教の条件や価値に対して、既成宗教中一のパスするものすら無いであらふ。否、八項目中一項目さへパスする宗教も恐らくない事は断言出来るのである。之によってみるも、未だ人類社会に真の宗教は出現しなかった事は明かである。

前述の理由に由って見ても、世間宗教といへば必ず迷信を連想するが、之は間違ってゐないのであって、全然迷信の無い宗教はないのが実際である。実は凡ゆる既成宗教は、真の宗教が生れる迄の過渡的産物であり、仮定的に真理を説いたに止まるのであって、全く真理の如きものを説いたまでである。仏教の真髄は真如であると釈尊が言った事は、此(この)真理の如きものであるといふ意味と思ふのである。

故に、真の宗教が生れた暁、必然、万教は帰一されない訳にはゆかないのである。八宗、九宗、何十派等と謂って、蝸牛角上の争をして居るといふ訳は、絶対の権威と神力を有する一大宗教が生れなかったからである。

今や顕はれんとする真の宗教が、如何に人類が未だ経験した事のない歓喜と幸福を与へらるる大威力あるものであるかは、事実によって万人が知り得るであらふ。(昭和11年5月30日)

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宗教の役割
メシヤ教代表 楳木和麿

11月度のメシヤ講座では、前回の「霊能者への話」中にありました「学習を積み重ねる」ということについて多くの質問が寄せられました。霊能力を強化するためには、学習を積み重ねることが大切なのですが、それは「宗教の役割」と密接に関わっております。

教祖ご晩年のご面会はなぜ芸術論ばかりだったのか

ご在世当時に側近奉仕者であった方々のお話の中には、「教祖ご晩年のご面会では芸術のお話ばかりであった」というものがあります。問答形式の御教えを拝読させていただきますと、確かにご晩年の一時期にその様子が窺(うかが)えます。

これは、戦後の「美術品の海外流出」を防ぎ、しかもその尊い東洋美術の粋を広く一般公開し、人々の情操教育に貢献する、という取り組みの報告とその意義の説明でした。しかし当時の面会者の多くは浄霊や問題解決についてのお話を望んでいた、と聞きます。その意味するところをおまり理解されていなかったようです。

芸術は何故必要なのか、という問いについてですが、分刻みで重大な決断を迫られるような役職にある場合など、一分の空き時間といえども名品を目にするとス-ッと疲れが取れます。高い芸術品は心を満たすものがあるからです。メシヤ様は「芸術による天国化」「芸術による人格向上」を唱導されました。なるほど、と思わされるところです。

宗教の役割ということについては、「時代苦を救う」ということに加え、「人々を時代に活きいきと生きさせてあげる」ということがあります。「信仰読本」の中では余り触れておりませんので、ここで説明しておきます。ご面会には、そのことを踏まえてのお話が随所にありまして、芸術論はまさにその典型的なものでした。

そのことを理解できる人が先達の中に大勢いれば、ご昇天後の教団はもっと違った形になっていたと思われます。もともと救いも、時代性を理解していなければ成り立たない面があります。僭越な表現ながら、メシヤ様ご自身が宗教論をよくお解かりになられた上で御神業を進められておられたのです。

ですから、絶えず最新の情報を手に入れられようとしていました。ご散歩の際にも側近奉仕者へラジオを持参させて、ニュ-スに御耳を傾けられております。また、各階の識者へも寸暇を惜しんでご面会されております。

メシヤ様はご晩年に『地上天国建設の準備は全て整えた』と仰り、後人に任を託されました。そこに深い意味がある訳で、『教祖のご精神を現代に求める』ということが大切なのです。

平城宮跡を訪ねて

「宗教の役割」というものを考える上で、たとえば、奈良時代というものを見つめてみましょう。今、平城宮跡で、「大極殿」復元工事が進められております。遷都1300年に当たる2010年完成予定だそうですが、その他の整備も進んでいます。東西・南北が約一キロの方形である平城宮めぐりは1日仕事になります。以前お話した法華寺の隣接地ですので、合わせてご覧になると良いと思います。

世界文化遺産・特別史跡となってから、解説ボランティアも一層充実しています。

さて、奈良時代は藤原京から平城京へ遷都されてから始まりましたが、藤原京は日本で初めて計画的に街路と街区を配置した本格的な都市でありました。平城京はその4倍もの規模となっている、と言われています。統治と外交の権威を形成するために苦心した、とも言われております。

「平城宮跡資料館図録(奈良文化財研究所発行)」によりますと、「奈良時代は、中国にならった法律制度にもとづく国のしくみが整った時代である。それにふさわしい日本の都として、都市計画にもとづいた大規模な都市、平城京を建設したのである」とあります。

この「中国にならった」というところが妙味のあるところです。朝鮮半島から素盞鳴尊が押し寄せることにより、絶対平和主義の伊都能売神皇はインドへ落ち伸びられることになり、釈迦へ仏教の教えを垂れます。

その後、素盞鳴尊のずさんな統治の虚を突いて、中国大陸から押し寄せた神武天皇が制覇し、2665年前に即位します。因みに、それ以来、漢字を古代文字に当てはめる作業を重ね、現在のような漢字と平仮名、カタカナを使用して表記する文化も形成されてゆきました。

この時代の税は、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)など、銭貨や品物でおさめるものと、雑揺(ぞうよう)・兵役など、働いて納めるものとがあったようですが、税の荷札などの木簡も多数出土しております。木簡の種類の多さには興味が耐えませんし、貨幣もこの時代に初めて造られております。

国分寺が全国に建立されて果たされたもの

そして、平城京には、国の繁栄と安定を願って建設された大寺院が林立しており、仏教文化が花開きつつあったことが偲ばれます。また、この時代、日本全土に国分寺が造られ始めます。不思議にも、中国大陸の覇者が日本の国のかたちを作り上げ、大和民族の宗家によって創唱された仏教が精神面を支えることになったのです。

国分寺は仏教を全国へ浸透させるという狙いがありますが、それぞれの寺を往来する僧によって都の文化が地方に伝えられました。「今、都ではこんな歌がはやっている」とか、「今、都ではこんな着物が盛んに着られている」というように伝えられたのですね。

一方、地方の様子も都に伝えられました。僧という者は、特定の階級を超えて幅広く伝道してゆきますので、そうしたことを自然に担ったのです。現代では想像だにできないようにゆったりと時間を掛けて事が進んでいたのですね。

これが実は、宗教の大切な役割だったのです。仏教による人心の救済に加えて、地方の人々も都の文化の香りを共に吸うことができたのです。当然、僧は仏教の教えに精通するだけではなくて、歌がうまくなければなりませんし、絵も上手に描けねばなりません。そうでなければ、「伝える」という役割を果たすことができませんでした。

平家の落人に見るご神意には奥の奥がある

こうした歴史の背景には、奥深いご神意というものがあります。前述の公家の時代から次の武家の時代へ推移する過程は、NHKの大河ドラマ「義経」で垣間見ることができます。その時期、平家の落人が日本各地に身を潜めました。

実はこの落人の分布によって、都の文化が地方に根付いてゆきました。これは『神の壮大な文化の普遍化の仕組だった』と教えられております。『神のご意図は、奥の奥のまたその奥におありになる』という御教えが胸に迫ってまいります。

また、落人の身を潜めての移動は山の尾根伝いが一般的でした。そのため、落ち着く場所が定まると、上級者が尾根に近いところへ居を構え、下級の者ほど谷間の低い所へ下りて住んでゆきました。

ところが、時代が移り現代のように国道が平地に開通し、山間部でも川沿いなどに開通してゆくと、低いところの方が便利になり、山の尾根の方は不便になりました。まったく逆の環境になってしまいました。長いスパンでの平等をここに見ることができます。

時代の変遷に伴う「宗教の役割」の変化

歴史というものを長いスパンで見つめると、このようにご神意というものを拝察することができます。

先ほどの宗教の役割というものも、時代の変遷によって現代では多きく変化しております。「文化の伝達」という役割は、高速情報社会となった現代では必要性を失ったも同然です。今は「情報の吟味」ということにシフトしていると言えます。

最後の審判の型の一つに『精神病の蔓延』が説かれております。精神病というものを把握する場合に参考になるものとして、「比べてはならないものを比べようとすると、ノイロ-ゼの原因になる」ということが挙げられます。これは、比較しても良いものか、比較してはならないものか、ということについて判断ができかねるということです。

御教えには『何が正しくて何が間違っているかが、容易に判り難い時代が到来する』とありますが、今まさにそうした時代を迎えていると言えるのではないでしょうか。だからこそ、「情報を吟味して、それを人々に宣べ伝えつつ、人々が時代性を理解した上で活きいきと生きることができるようにして差し上げる」ということが宗教の使命となるのです。

日常生活に時代性が落とす影

もちろん、もっとも果たしてゆくべきことは、時代苦を救うということです。しかし、救いは時代性と密接に繋がっております。

たとえば、経済至上主義の波の中で、食べ物が変質しております。これは何層にも私達の生活に暗い影を落としております。まずは健康を害する食べ物が非常に増えております。農産物に残留する農薬や化学肥料が人体に与える影響の大きさは背筋が寒くなる程です。食品添加物をはじめとする化学物質も同様で、私たちは日常的に化学兵器に襲われているような状況です。

また、ファストフ-ドによって本物の味を知らない人が増加しております。これは当然情操にも影響を及ぼします。そしてそれは、各家庭で本物の味を引き出す炊事が減少するという事態を招いております。これは、躾の欠落に通じてしまい、前回の話に関連して脳の発育のバラつきを生んでいるところも見受けられます。

今、懸命にスロ-フ-ド運動が繰り広げられておりますが、まだまだ一部の方々に止まっております。中には、極端な懐古運動を進めている方々もいます。しかし、懐古と本来のあり方とは必ずしも一致は致しません。食というものには、楽しむということがなくてはならないからです。

食材としての本物の味を知り、次に調理に工夫を重ねた伝統を知り、容器の機能美や盛り付けの美しさを知り、それらすべてを楽しみ味わってこそ、真の満足を得ることができるのです。そして、そうした積み重ねが精神的にも肉体的にも糧となるのです。

憲法草案に見る不勉強

こうしたことは随所に見られるのですが、自民党がまとめた新憲法草案をめぐって起きている論争でも大きな問題が浮かび上がっております。

その中の「憲法の基本理念を謳う前文」を取り上げてみますと、自民党新憲法起草委の前文小委員長の中曽根康博氏と起草委事務局次長の舛添要一氏とでは、その姿勢が全く異なります。

中曽根氏の前文原案には「・・・和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ・・・」とあります。舛添氏は「・・・‘和を尊び’は、中曽根元総理の歴史観だ。だが、日本の歴史は、和を尊ばずに、争い続けた歴史とみる見方もある・・・」などとし、原文をバッサリと削る役回りを努めました。(読売新聞11月23日付朝刊)

両者の見識は、それぞれ多くの人々に指示されてはおりますが、しかしこれからの日本が世界に対して果たす役割を考慮すると、「今一歩」と言わざるを得ません。それは、日本の歴史に対する認識が浅いから生ずることです。

先ほどからの話にも関連致しますが、大和民族の宗家にあたる伊都能売神皇のご在位まで遡(さかのぼ)って日本と日本人種を見つめ直さねばなりません。その上で、今後の目指すべき在り方を謳わねばなりません。

もちろん、識者も異口同音に「これから議論を重ねるべき」と述べております。議論の根底には、「そもそも憲法とは、日本国がいかなる国であるのかについての根本的な理念を表明したもの」ということがありますが、近視的な歴史観ではなく三千年、六千年の営みを踏まえたいものです。

冒頭触れました国の成り立ち、変遷を踏まえた上で、世界に恒久平和と繁栄をもたらす牽引役を担うことが可能な国づくりを目指すことを盛り込んでいただきたいですね。そうであらねば、国民自身が国民としての自覚と誇りと責任をもって生きてゆくということに繋がりません。

宗教に身を置く私たちは、さらに学習を重ねて参らねばなりません。取り分け救いの力を授かり、真理の教えをいただいている身として「自分の中の何を以って社会や人々へ貢献できるのか」を求道し続けたいものです。メシヤ講座の場をはじめ、祈願参拝や浄霊会の場で、さらにお互い啓発し合って欲しい、と願っております。啓発し合ってこそ、楽しく、有意義な場になります。

来る「メシヤ降臨祭」では、祭典終了後にそうした場を設けたいと考えておりますので、今から楽しみに致しております。

(註) 平城京の全体像は東西4.8km・南北4.3kmの左京・右京の東に東西1.6km・南北2.1kmの下京があった。平城宮は、平城京の中央北寄りにあり、東西1.3km・南北1km。東側に張り出し部がある。(甲子園球場の約30倍の広さを誇る平城宮跡はほぼそのまま残されている。遺構展示館→「大極殿」復元工事公開施設→平城宮跡資料館→朱雀門(すざくもん)→東院庭園を全て徒歩で回って6時間を要した。なお各所に駐車場があり、全て入場無料。「平城宮資料館図録」は千円。)

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<メール交換・パ-ト2 プラス体験記>
メシヤ教にふれて(上)

私は、前回までのメール交換の主です。

メシヤ教にふれて、というより楳木先生に出会って、教祖本来の御教えにふれる機会を得た、というのが正直な想いです。今回から3回にわたって私の信仰経歴をご報告申し上げます。

これまでの経緯

私は現在32歳です。21歳の時に浄霊に出会いました。特に何らかの病気があったわけではありません。ある人を隣に乗せて不思議な体験をしたことがきっかけになりました。

当時の私は日頃の疲れが抜けにくいこと、中学生の頃から不快感を自覚している強い首肩の凝り、排尿の具合の悪さ、そして怒りやすいという自覚症状がありました。また、1~2時間も運転すると首肩の凝りが激しくなり、イライラと疲労感で運転を交代するのが常でした。

ところが、この人と出かけた日は、約7時間連続の運転をするも大した疲れを感じません。かえって身体に活力を感じ、休息も無く運転を交代することも無く午前4時頃自宅に帰り着きました。それからまだ友人達の集まりに出かける元気があり、帰宅して就寝したのは午前7時頃だったでしょうか。

この日は体調に不思議な変化を感じた一日になりました。「今日は強いエネルギ-を受けてきたから、その余波で近くにいるあなたも元気なのかもしれない」と言われたことが心に残り、後日詳しく話を聞く機会を持ち、関心を強く持ち、先生と言われる方にお会いすることになりました。

しかし、お願いをする当日まで神様の力とは聞いていなかったので、お願いに伺った際、神様が祭られていて、正直、大変に衝撃を受けました。かと言って、その場で帰るのはいかにも失礼なので、ともかくその先生から概要を伺いました。

何のためにその力(以後、浄霊と表記)が発生したのか、浄霊の影響する範囲、実際に病気から回復した例の数々、人間が病気になるまでの経緯と回復までの経過、薬剤の人体への影響の実際。聞いたことの無い話ではありましたが、内容に筋が通っていると感じられ、又、実際に結果を積み重ねている話に好感を覚え、神様という言葉に戸惑いを感じながらも、浄霊についてお聞きした内容が正しければ多くの人に裨益するものになる、しっかりと内容の実地確認をする価値があると思いました。

と同時に確認作業をしてお聞きした内容と違っていたらすぐ辞めようとも思っていたのです。そんな中で、自分でも浄霊できるようしていただきました。その夜、知人に早速浄霊を取り次ぎ、翌日は別の人に浄霊を取り次ぎ、この時点で何らかの変化があったことを二人から聞きました。

それから3日間は、自分の身体を自己浄霊することと浄霊についての解説が書かれた本との対比に明け暮れました。解説は浄霊の原理だけでなく、多くの実地に基づき、その結果を書かれていたので興味が尽きませんでした。

実際に自己浄霊してみると、身体のあちこちにある固まりは少しずつ小さくなっていく、硬いところは柔らかくなっていく。柔らかくなったり小さくなるスピードが場所によって違う。固まりの大きさや硬さによって変化に違いがあることも知りました。

延々と確認作業に明け暮れ、3日後には私の身体も他の人の身体も人間という括りではそう変わりはないはずだ、きっと他の人にしても同じような変化が起きるのだろう。そんな確信が得られました。

私は、所用を済ませた後実地検証に本腰を入れました。知人や家族に話すのは大変勇気のいることでしたが、薬害について、浄化(排毒)作用と病気についての正しい理解は多くの人が自分で身を守ることになる、実際に受ければ結果が出るのだからきっとわかるはずだ、ほとんど勢いで、拙い説明をしながら随分たくさんの人に浄霊を取り次ぎ、実地検証を重ねました。

大きな変化が起きても何の関心も寄せない人、小さな変化を感じとって自ら確認作業に取り組まれる人、やさしい人、冷たい人、世の中には色んな人がいることを痛感しました。

知るのと実感するのは大きな違いがあります。延べ何百人に浄霊を取り次いだか忘れてしまいましたが、この時期の行動、経験から与えられた覚り、実地検証を重ねたことによる確信によって今の私は育てられたと思います。

そうして、自らの中に少しずつ蓄積されていく悩みの原因に気がつくまでは、病に悩む人の力になり、多用な日々を送りながら、少しは社会に役立っているだろうかと自分の人生に何とはなくの有意義さを感じ、充実した日々を過ごすことができたのです。(続く)