メシヤ講座・特選集no.46(平成16年11月分)

<御教え>
キリスト教
(1952年文創のまま)

今迄何人もかかなかった事柄に就てのみの記述

キリスト教は、キリスト生誕の時から在世中は固(もと)より、十字架に懸られる迄の凡(すべ)ての事は、微に入り細に渉ってかきつくされてゐるので、今改めてかく必要はないから、私としての今迄何人もかかなかった事柄に就てのみかくに止どめておくので、読者は諒(りょう)せられたいのである。

私が常にいふ如く、神は何千年に渉って、天国的文化を形成する目的の下に経(たて)と緯(よこ)の経綸をされて来たのであるが、其(その)経の経綸の代表的宗教としては仏教であり、緯の代表的宗教としてはキリスト教であった。そこで仏教に就ては既(すで)に解説オて来たから、今キリスト教に移るが、緯の経綸こそ物質文化の進歩発展の基本であって、即ち科学である。今日驚くべき文化の発展は、全くキリスト教以来の世界的経綸である事は言う迄もないが、茲(ここ)に於てキリスト教は何故生れたかといふ事や、其他の点に就て次に詳しくかいてみよう。

善悪発生とキリスト教
(1952年文創のまま)

善と悪に就ての事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属する

此(この)表題の意味を説くに当って、予(あらかじ)め知っておかねばならない事は、再三言ってゐる如く、仏教の真髄は霊が主であり、キリスト教のそれは体が主である事である。とすれば今之を仮に善と悪とに別けてみると、霊は善に属し体は悪に属するといってもいいが、併(しか)し此場合の善悪は決定的のものではなく、只(ただ)強(し)いて別けるとすればそうなるのである。換言すれば霊を主とすれば霊主体従となり、体を主とすれば体主霊従となるからである。今それらに就て順次解説してみるが、善と悪に就て、徹底的解釈をするとなると、之は仲々難しい問題であって、今日迄此問題を真に説き得た者は、殆(ほと)んどないといってもいい位である。何となれば此事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属するからで、即ち哲学的に言えば宇宙意志である。従って主の神以外の凡ゆる神でも分り得ないのは当然で、況(いわ)んや人間に於てをやである。若(も)し此問題を説く人があるとすれば、それは人智から生れた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。処がそれを私は茲に解説しようとするのであるから仲々大変ではあるが、といって私の想像的所産ではなく、神示によるものであるから別段難くはないのである。といふのは時期来って地上天国建設の大任を負はされた私としては、或(ある)程度主神の真意が感得されるからで、読者は此点よく心に止めて読んで貰(もら)ひたいのである。

そうして今茲に説明する処の理論は、私が常に説く処の大乗よりも、一層大乗ともいふべきもので、勿論前人未到の説であって、文字や言葉での表現は寔(まこと)に困難である。従って兎も角(ともかく)現代人の頭脳で解し得る程度と共に、神から許されたる枠内だけの事を説くのである。

神は、何故悪を造られたのか―善悪の闘争によって、文化の進捗を促進させた

抑々(そもそも)主神の御目的なるものは、之も私が常に曰(い)う如く、真善美完き理想世界を造るにあるのであるから、其御目的に必要な程度にまで物質文化を進歩発展させればいいのであって、それが今日迄の世界の歴史であると思へばいい。其意味を以て現在の文化形態を審さに検討する時、最早時期の来てゐる事に気付くであろう。

以上の如く、物質文化が此程度に迄進歩発展したに就ての、古代からの過程を凝視する時、其処に何を見出すであらう。といっても人間の頭脳での発見は困難であるが、私は今それを解説しやうと思うのである。それは世界の一切は神意による経綸である事を充分しらせたいからである。そこで先づ人類の最大の苦悩である処の善と悪との摩擦即ち闘争であるが、此闘争なるものの原因は、言う迄もなく悪であるから愛の権化ともいふべき神は、何故悪を造られたかいふ事である。此事は昔から何人も知らうとして知り得なかった謎であったが、それを今私は解こうとするのである。それに就ては先づ心を潜めて歴史とそうして文化の進歩の跡を顧り視る事である。としたら其処に何を発見するであらうか。処がそれは意外にも人類の闘争によって、如何に文化の進歩を促進したかといふ事である。若しも人類が最初から闘争を好まず、平和を愛してゐたとしたら、物質文化が仮令生れたとしても、其発達は遅々たるもので、到底今日見るが如き目覚しい発達は遂げ得られなかったに違ひない。此事をよく考へてみたら、悪なるものが如何に必要であったかが分るであらう。

悪は無限に許されたものではない
統制と調節役として生れた宗教の主役がキリスト教

処で茲に問題がある。それは此善悪の摩擦が文化の進歩に必要であったとしても、悪は無限に許されたものではない。いつかは停止される運命が来るに決まってゐる事であって、今日其時が来たのである。何となれば現在の文化形態をみればよく肯ける。即ち戦争手段としての驚くべき武器の進歩である。言う迄もなく彼の原子破壊の発見であって、此発見こそ人類の破局的運命を示唆してゐるもので、最早戦争不可能の時期の来た事の表はれでなくて何であらう。之によってみても闘争の根本である悪なるものの終焉は、最早寸前に迫ってゐる事に気付かなければならない。勿論常に私の唱へる昼夜の転換の如実の現はれでもある。之を歴史的に見てもよく分る、若し悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであらう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事は出来ないで、遂には魔の世界となって了ひ、一切は崩壊するに決まってゐる。としたら或時期迄統制も調節も必要となるので、其役目として生れたものが宗教であり、その主役を荷った者が彼のキリストである。同教の教義の根本が人類愛であるのもよくそれを物語ってゐる。それによって兎も角白色民族の社会が、魔の世界とならずに、今日見る如き素晴しい発展を遂げたのも、全くキリスト的愛の賜でなくて何であらう。以上によってキリスト教発生の根本義が分ったであらう。

地上天国の要素たる文化的準備が出来た今、無神論者は覚醒すべき

そうして今一つ忘れてならない事は、無神論と有神論である。之も実をいえば経綸上の深い意味のある事であって、それは若しも人類が最初から有神論のみであったとしたら、悪は発生せず闘争もないから、それに満足し立派な平和郷となり、よしんば唯物科学が生れたとしても、発展性はないから、到底地上天国の要素たる文化的準備は出来なかったに違ひない。処が無神的思想が蔓(はびこ)った結果、形のみを主とする以上、今日見るが如き、絢爛たる物質文化が完成したのであるから、全く深遠微妙なる神の意図でなくて何であらう。然(しか)し表面だけしか見えない唯物主義者などは、それらの真意を汲みとる事は出来まいが、右(上記)の如く愈々(いよいよ)悪の発生源である無神論は、最早有害無用の存在となったのである。としたら世の多くの無神論者よ、一日も早く覚醒されるべきで、若し相変らず今迄通りの謬論(びゅうろん)を棄て切れないとすれば気の毒乍ら滅亡の運命は、君等を待ち構へてゐるのである。何となれば善悪切替への時機は決定的に接近しており、其場合神業の妨害者は絶対的力によって生存を拒否されるからである。そうして神は無神論者を救う手段として採られたのが、神の実在を認識させる事であって、其方法こそ本教浄霊である。見よ本教に救ひを求めに来る数多の重難病患者等が忽(たちま)ち全快の恩恵に浴して、此世に神は確かに存在する事を知って、翻然(ほんぜん)と目醒め、今迄の無神論の誤りを悔ひ、忽ちにして有神論に転向するのは、百人が百人皆そうである。何よりも此実例は、お蔭話として数へ切れない程本教刊行の新聞雑誌に掲載されてあるにみて一点の疑ひを差挿み得ないであらう。

自然淘汰に見る深遠微妙なる神の意図

以上の如く今日迄は、悪なるものも大いに必要であった事と、今日以後は二義的存在として、制約される事が分ったであろうが、之に就て別の例を挙げてみようと思う。それは原始時代に於ける彼のマンモスや恐竜の如き巨大動物である。それは今世界の各地に時折発見される骨であるが、之によってみても実在したものであったに違ひない。其他にも大蜥蜴(とかげ)やそれに類した奇怪な動物が、旺んに横行してゐた事は想像に難からないが、今は影も見へないといふ事は、全く自然淘汰による為であらう。其理由は不必要となったからであるのは言う迄もない。必要といふのは何しろ地球が形成され、相当期間地殻が脆弱(ぜいじゃく)であったが為、それを踏み固めしむるべく多くの巨大動物を作り、其役に当らせたのであって、大方固まったので淘汰された事と、自然硬化作用と相俟って、漸(ようや)く立派な土壌となったので、神は植物の種を造り蒔いた処、漸次(ぜんじ)植物は地上に繁茂し、生物の生活条件が完備したので、茲に人間初め凡有る生物を造られたのである。併し乍ら最初の内は至る処、猛獣毒蛇等々が棲息し人間を悩ました事であらう。そこで其時の原始人は、之等動物との戦闘こそ生活の大部分であったであらう。之等動物の幾種かは時々発見される骨や、其他部分品等によっても大体は想像がつくのである。勿論之等大部分の動物も自然淘汰されたものであらう。それらに就て想はれる事は、日本に於てさへ彼の日本武尊が、其毒気に中てられ生命を失ったといふ説にみても、それ程獰猛(どうもう)な奴が到る処に棲んでおり、人畜に被害を与へたに違ひあるまい。処が其様な有害無益の生物も、歳を経るに従ひ消滅又は減少しつつあるのである。従而、最早今日では人畜に危険を及ぼすやうな動物も、種類によっては殆んど死滅したものも尠(すくな)くないやうである。此様な訳で遂に動物といへば、家畜動物のみとならう事も想像されるのである。

人間と雖(いえど)も自然の法則から免れる事は出来ない
現代では人間に内在する悪は有害無益の存在

以上説いた如く、文化の進むに従って、必要であったものも不必要となり自然淘汰されるとしたら、最後に至って人間と雖(いえど)も自然の法則から免れる事は出来ないのは勿論である。としたら人間に対するそれは何かといふと、勿論人間に内在する悪である。曩(さき)に述べた如く今後の時代は、悪は有害無益の存在となる以上、悪人は淘汰されて了ふのは当然な帰結である。之を一言にしていへば、進化の道程として動物と同様の人類が進化し、半人半獣であった人間が、即ち外表は人間、内容は獣であった、其獣性を除去して全人間にするのが今や来たらんとする神意の発動であって、それに服従出来ない者が、自然淘汰によって滅亡の運命となるのである。

本教の大神命―神の大愛を知らしめる

以上の如く善悪の人間が清算され、善の人間が大多数となった世界こそ、本教で謂ふ処の地上天国の実相である。右(上記)によっても分る如く、滅亡の一歩手前に迄来てゐる悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくする其救ひこそ、神の大愛である事を知らせるのが本教の大神命である。

(次回は『経と緯』を掲載)

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<質疑応答>

「行者なり」と言われた日蓮上人と『夜昼転換』の黎明期

Q.  仏教に関する御教えを縷々(るる)拝読させていただき、非常に勉強になりました。その中で、日蓮上人が「吾は行者なり」と言われた箇所がありましたが、深い意味があるのでしょうか?

A.  日蓮上人については、種々書籍や資料がありますのでそれらを参考にされたら更に良いと思います。ここでは、御教えの下にお答えすることに致します。

私は、学生の頃から『日蓮上人の出現により、夜昼転換の黎明期を迎えた』とする御教えが気にとまりまして、機会あるごとに文献に触れ意味するところを求めて参りました。そうした中で、今触れられた「行者なり」ということが少しずつ推察できるようになりました。

だいたい二つの点からお伝えしたいと思います

仏教改革―「釈迦の精神」を求め続けた

まず、当たり前の表現ですが、日蓮上人は天才でした。12歳で清澄山へ登り、「日本一の智者にならしめ給え」と虚空菩薩へ祈り続け、17歳の折に『聞き届けてやるゆえ励めよ』との啓示を受けたと言われています。

その後、むさぼる如く勉学に励み、短時日にして一切経を網羅したと伝えられていますことは周知の通りです。そして「釈尊の理想はただ一つのはずなのに、導く者の足並みが、八宗十宗に分かれていて、衆生はいっこうに極楽浄土に近づけぬ・・・」という疑問にぶつかります。

また、時代の覇者は荘厳な伽藍を建立し、仏法に帰依する如くに振舞うが、結局はそれは民百姓の難儀を伴い、そしてまた、その覇者の地位を狙って、次々に戦(いくさ)が繰り広げられて、衆生は戦火に焼かれ、血の海に投じられ、その地獄の様相は無限に繰り返されてゆきそうだという懐疑を膨らませたのです。

聖者と仰がれた高僧は為政者と癒着し、無学と堕落によって仏教の本義を忘れてしまっているという、当時の仏教の大きな誤りまで知り得たことになります。

人の世は千変万化し、ある時期は薬師如来としての救済を必要とし、またある時は帝釈天として護法の威力が求められ、大日如来の理と知や阿弥陀如来の希望がなければならない時代もある、しかし、宇宙の絶対的本質を見極めなければ、『空』の意味も解らず、真の衆生済度はない、今こそ仏教の本義に結集し団結すべきで、それが成った時に、初めて地上へ極楽が出現する、という境地に立たれたといわれます。

仏教改革―堕落を防ぎ続けた

次に、「山法師の暴力や、権門に媚(こ)びへつらう高僧」を嘆く俊才成弁(じょうべん)から「お志」を質(ただ)されまして、「釈尊は末法の弟子の力弱さを歯痒く思し召していられることであろう。法華経には、この教を奉じて正しい道を弘めんとする者にはあらゆる迫害があろうと書かれてある・・・」と、胸をえぐられるような詰問があったといわれています。

日蓮上人は、この問答を虚空菩薩の啓示と受け止め、諸宗、和漢の更なる研究に前後7年を費やし、『比叡山の改革のみでは、日本仏教の歪みは正し得ない』との結論を出し、決然と山を降ります。

そして、山を降りるとそのまま伊勢路をとります。伊勢神宮の内宮に詣でたのです。一夜を神前に祈り続けて、安房を目指したことになっています。32歳の時ですが、この「伊勢詣で」については、余り触れられる機会はありません。

しかし、実は重要な意味を有していまして、神道の総本山とも言うべき宮へ参詣し、そこで何を祈ったかはだいたい拝察することができます。仏教を極めたとするならば、日本の神様、つまり伊都能売神皇の教えということを覚るに違いありません。ですから、その本元に祈願したということの意義が生れます。

そして、清澄山々頂にて昇り来る日輪に向かって「仏教改革」に立ち上がる呱々の声を上げられました。それらが『夜昼転換』の黎明になったということです。

日蓮上人は、こうして「仏教改革」に立ち上がるのですが、ご承知のように「受難」の連続でして、最後には、立宗という動きになってまいります。生涯の取り組みの中で、勉学を怠ることなく、堕落することなく、改革者、革命者たり得ようと日々行じていたのだと思われます。

私達は、そうした精神世界を心に留めて、次回から物質文化発展の背景で役割を荷ったキリスト教について御教えを求めてまいりたいと思います。

『メシヤ降臨祭』を迎えるにあたって

Q.  今年も早いものであと一ヶ月を残すこととなりました。『メシヤ降臨祭』を迎えるにあたって、そのあり方について教えてください。

A.  まず、今年はどういう年だったのか、を静かに考えなくてはなりません。社会現象については折々に触れてまいりましたので、思い返していただきたいと思います。

日中の摩擦に過剰反応し過ぎる日本社会は未熟さゆえか

最近の社会情勢の中で、対中国問題を通して気になる点をお話しておきたいと思います。油田開発や原子力潜水艦問題で、中国の姿勢は横暴で目に余るところがあります。そして、最近では日中問題で必ず「靖国」を出してきます。

日本のマスコミや財界、一部政界は、それに過剰反応し、国民を翻弄(ほんろう)してしまいます。これが困るところです。小泉総理も可哀想な面もありますが、やはり筋が通ってないから問題なのでしょう。

何時も言うことなのですが、小泉総理が釈明する内容、つまりは「過去の過ち」と「不戦の誓い」、「戦没者の慰霊」ということを「祭祀祝詞」に織り込んで奏上し、その内容をその都度公表すればよいのです。そこのところを曖昧にするので、毅然(きぜん)とした態度にならないのです。

しかも、油田開発や潜水艦の問題で悪いのはどこかということは明白なのですから、日本は一丸となって抗議し続けねばならないはずなのですが、反応の仕方がこれまた曖昧なのです。これはやはり、議院内閣制に問題があるのでしょうね。途中で総理が変わる可能性を持っていますからね。一度選ばれたら任期中は日本の舵取りを任せ、一丸となって支えてゆくあり方に変えなければ、良い政治は期待できないのかも知れません。

それから、現代日本人は中国のことについては無知のところが多いですね。たとえば、サッカ-戦で端を発しての半日運動でも、背景には複雑な問題が幾重にも折り重なっていると伝えられています。

石川好氏(新日中友好21世紀委員会委員)は「反日運動の正体は反共産党運動だ」と指摘しています。中国国民にとっての最大の不満の対象は外資と結託して勝ち組みにのし上がった一部の共産党幹部であると言われます。その反発をストレ-トに表わせないので形を変えて噴出している、というのです。

また、中華という世界は、昔から非常に国際的な世界で、周辺の民族の文化も、やがて中華という世界に融合していったところがあり、日本よりはるかに国際的で大人の社会と言えるところがある、と述べる専門家もいます。

しかし、中西輝政氏(京都大学教授)は「中国という国は、自分が余裕がある時には、外国人もどんどん来い、これこそ我々中華文明の優越の証拠だ、という鷹揚(おうよう)さを見せるのですが、ひとたび事態が悪くなると、非常に偏狭になり、被害妄想的な排外主義が台頭してくる」と、厄介な側面を持っていることを指摘しています。

大切な事は、これまで譲れない対立があっても無原則に対応して、ずるずると譲ってきたことを反省し、きちんと対応すべき時機を迎えているということを認識すべきです。何事によらず押し並べて、一つ一つ過剰反応することのないようにして、相手の性質を弁えて対処すべきです。

自らの心・言・行を静かに振り返る

さて、それでは自分自身はそうした事に振り回されなかったか、ということを顧みておかなくてはいけません。マスコミに汚染されては来なかったか、対極を見失う事はなかったか、ということです。これが第一ですね。

次に、日常生活における心・言・行はどうであったのか、静かに振り返ることが大切です。私達が目指している「霊性の向上」という取り組みを支えているのは、

「感謝の生活」
「積徳の生活」
「メシヤ様の精神を現代に求める生活」

です。

「メシヤ様の精神」は「利他愛」、「合理性」、「即時性」に集約されます。ご自身の日常生活を、それらを鑑(かがみ)として照らしてみてどうだったのか振り返る機会にしていただければ幸甚です。そうして、よく出来たところは、自分を褒めてあげ、至らぬ点は改める課題として、祭典を迎えていただきたいと願っております。

そうしたことが、根本教義を学び、それを基に身辺を視て判釈(はんじゃく)を得て、自分の生き方を決める、という『教・論・律』に生きているということなのです。

御守護は一層鮮やかに

来年は、更に神威弥増す年となります。

地上天国建設に取り組む上での御守護は一層鮮やかになります。とりわけ、平成17年は御神業上この上なく素晴しいことがあります。楽しみのためにソワソワする程です。その内容は来年2月に発表致します。

また、当然のことながら、火素の増量に伴う浄化作用は厳しさを増します。普段から「浄まる」生活を心掛けてゆくことは勿論、多くの方々へ浄霊を取り次いでまいりたいと願っております。また、一人でも多くの方を天国生活へ教導して差し上げていただきたい、と願っております。

メシヤ様の知恵と力の恩恵に浴する人を、一人でも多く許されてゆくように、誠を捧げてまいりましょう。

以上のように「メシヤ降臨祭」は感謝と喜びと誓約の機会であり、しかも実質的な新年です。平成16年に賜りました御守護を感謝申し上げ、17年に向かう御力を大きくいただけますように、共々にお祈りさせていただきましょう。